零章 始まり 01
Side.Lutoka
「う……、くっ」
息が詰まったような気がして、ルトカは瞳を開いた。けれど、視界に入るのは凝縮された昏い闇だけ。どれだけ目をこらしても、例え非常に夜目が利く人物がここにいたとしても、その眼に闇以外が映ることはないだろう。何故ならば、ここには何もないから。
(ああ)
ルトカは唐突に理解した。これは夢だ。だから良いだとか、嫌だとか、そういう感情はなくただ夢なのだと理解する。そもそも夢の中においてこれ程はっきりと自我を保てるものなのかということも甚だ疑問ではあるが、己が夢の中にいてそれを理解しているという、そんな自我が夢の中にいるのだと納得してしまえば、然程大きな問題でもなかった。
右手を喉にそっと添えると、見えないながらもその感触が手からも喉からも伝わってくる。少し力を入れると、先程の圧迫感に近いものがルトカの喉を締め付けた。さらに力を入れると、呼吸が浅くなる。酸素を求めて肺が焼け付く頃、ルトカは己を解放した。知らず、息があがっていた。
夢の中では痛みを感じず、頬をつねれば目が覚めるという。が、今ルトカは苦しみを味わったし目が覚めたということもない。では、良く言われるそれは嘘だったのか、はたまたこれは現実なのかもしれない。
ともあれこの暗闇では迂闊に動くこともできない。ルトカは周囲の気配を探りつつ身を屈めた。事が起こるなり夢から醒めるなりするまではこうしているしかないだろう。
どれ程そうしていただろうか、ルトカの時間間隔が麻痺してきたころ、それは訪れた。
目の前に、長衣の男があらわれた。
「っ……!」
ルトカは思わず息を呑んでから、我に返って深く呼吸を繰り返した。落ち着けルトカ。よく状況を見ろ!
注意深く男を観察すれば、その左手に煌々と火の灯る松明を掲げており、それによって闇が開けたのだと分かった。そして右手には何かを抱えており、それを見た瞬間、ルトカはこれから起こることを知る。
「……や……」
無意識に声がこぼれる。だが、ルトカの呟きは男へ届かない。この出来事が実際に起こった時、今のルトカはそこに存在していなかったのだから。
無造作に、黒衣の男が右腕で抱える塊を放る、どす、と重たげな音を響かせながらそれは落下し、なすすべもなく地に転がると上体を起こした。長く美しい金髪の、幼い少女。
かつての、ルトカ。
現在(いま)のルトカは、耳を塞いだ。しかし、必死に拒もうとしても、その低い声は直接脳裏に木霊する。
「ラカ。羅香・胡乃宮。間違いないな」
幼い少女は答えない。その背が小刻みに震えているのを、ルトカと男は見る。ルトカは表情を変えず、男は口角を吊り上げて笑った。
「お前は、もう元の世界には戻れない」
告げられた言葉に、少女が目を見開いた。微かに開いた唇の間から、声は微かにも漏れない。それを見て、男は満足そうな表情を浮かべる。楽しそうに。
「ああ、戻れない。何せお前は私達の手の内だ。落ちたからだ。破滅を呼ぶ娘よ。愚かにもあちらに呼ばれ、連れ戻された哀れな娘よ。お前はいるべき場所に戻るのだ。どちらでもない。ただ空虚な空間に溺れる。共に堕ちよう。拒みはしなかろう? なぁ、娘」
大きな掌が眼前に迫る。ぐっと目を瞑る幼女の瞳に上からそれをかぶせ、忍び笑いを漏らす。ぐっと力を込められ、眼球が圧迫される。
甲高い悲鳴が空を裂く――
「っ!?」
がばり、と勢い良くルトカは飛び起きた。しばらくその姿勢で固まると、窓の外から差し込む朝の光とほの懐かしい木々の香りに息を吐いた。
薄赤の瞳で辺りを見回す。暗闇はなく、ぼやけた太陽が室内を優しく照らしている。自分がいるのはふかふかとした寝台の中、部屋の隅には少ない荷物。中心に小さな書机。その上にはちんまりとした包みが置いてある。宿のサービスで提供されたポプリだ。
「……平和」
ルトカは軽く溜め息をついた。寝台から降りて身支度を始める。ああ、ここは平和だ。甘んじることのできない平穏だ。もっと浸っていたい、けれどそれはできない。
「それが私だから」
美しかった金髪は、色が抜けて白に近い銀の色になってしまった。蒼い瞳の色素も抜けた。肌は病的な白さ。陽の光に弱い身体だ。髪はあごで短く切った。
袖の長い服を二枚重ねて腕を通し、上着と同じ素材のスカートは膝上で、腰をベルトで締める。足を根元近くまで覆うストッキングの上から分厚いブーツを履く。食事の後には、厚みのある手袋とやわらかい帽子まで身に着ける。この動作にも、もう慣れた。
夢の名残を振り払い、ルトカは少ない荷物を纏め、部屋を簡単に整理して階下へと向かった。宿の女将が、食事を用意しているはずだ。それを食べたら、ルトカは出発する。もうここに用はない。ポプリはもらっていくことにした。
さあ、今日も始まった。
歩き出そう。
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