壱章 アッテラ 13
翌朝。
階下の食堂で朝食を済ませると、店主に少しばかり交渉して、ユファランタはキリアニルタを伴いロックの元へ赴いた。昨日は慌てて別れてしまったのと、またキリアニルタに気まずい場面を見られてしまったのもあり、二人の姿を見るなりロックは、両手を胸の前で合わせて謝罪してきた。
「昨日は、悪かった」
「いいえ。……今日はお願いがありまして」
出会い頭にユファランタは切り出した。ロックは指先だけ合わせたまま、掌を離してきょとんとした。
「ああ、何だ?」
「レステンドさんのお宅へ、連れて行ってください」
「…………。はあぁ!?」
ロックが盛大に叫んだ。食堂の客達が同時にこちらを振り向き、半ばぎょっとしたようにロックを見た。しかしすぐに視線を逸らし、自分のやるべきことに集中した。それを笑って眺めながら、ユファランタは続ける。
「いえ、何分私達も余所者ですからね。この土地の方を通したほうが、面目も良いでしょう」
「あ、あ、……分かった。けど、俺仕事が」
「店主殿にはもうお許しを得ています。今日は貴方、有給休暇です」
「……手が早いのな」
呆れたようにロックは呟き、ユファランタの後ろでキリアニルタが二つほど頷いた。それにさらに溜め息をつくと、ロックは兄弟を導いた。
「おし、分かった。んじゃあ行くか。朝飯は食ったんだろ?」
「はい。もちろんです」
「あ、あの大食いの姉ちゃんは?」
「悪かったわねえ大食いで」
背後から響いた女声にロックがぎょっとし、飛び上がる。ユファランタは軽く笑い声をあげ、ロックの肩をぽんぽんと叩いた。
「わっ、わっ、わっ」
「それじゃー、キリ、ユフ、行ってらっしゃい。私は私で楽しんでくるから♪」
そう言いながらカナルナータがちらつかせたのは、幾分、いやそれなりに、かなり膨らんだ財布。カナルナータは機嫌良さげにスキップで〈白鹿亭〉を後にし、残された三人はそれを見送った。ロックはぱっかりと口を開け唖然としており、苦笑しているユファランタが口を開いた。
「姉上様が、『私は行かなーい。ユフとキリで楽しんできてっ。あーでも暇だなー、折角時間あげるのに、私は暇だなー』などとほざくものですから、ちょっと袖の下を」
「袖の……って、買収かよ……」
「いーえ、双方の合意のもと利害が一致したのです」
「いや、それも買収って言えなくもないんじゃ……」
ひたすら困惑するロックに、暗い笑みをたたえるユファランタ。それをちらりと見やると、キリアニルタは無言で店を出た。
表には出さないが、その実キリアニルタは非常に急いた気持ちでいた。レステンド家の令嬢、キャロンシーナ。酷く病弱な少女。まだ眼にしたことのない姿に想いを馳せると、それに重なる影がある。長く切りそろえられた黒髪と、大きくぱっちりとした瞳。白に朱をさした優しげな頬。唇はそっと笑みを形作り、清らかな声を紡ぎだす。
(……シュナン)
片時も忘れることのなかった、少女の面影。
それを必死に脳裏から振り払うと、キリアニルタは前方を見据えた。少し右寄りに、ロックが先を歩いている。左後ろには、ユファランタの笑う気配が感じられる。極力あからさまにならないようにしているのか、微かに振り返ってくるロックの表情は固く、また困っているようにも見えた。無言で歩き続けている。
やがてロックは住宅街の方向へ足を向け、大きな屋敷の前で立ち止まった。
白い鉄格子の門が聳え立ち、その内側に緑の芝生が広がり、白壁に赤煉瓦の屋根の屋敷が腰をすえている。表札には『Restend』の表記。大きなテラスが付き、庭には白のパラソル。いかにも金持ちそうな館がそこにあった。
「ここ……だよ、レステンド」
ロックが言い、門に備え付けられている鈴へ指を伸ばした。ゆっくりとした手つきで紐をつまむその動作は、恐れを抱いているように見える。あるいは怯えか。この先に何が待ち構えているかを知っていて、抱く怯え。ロックは慎重に、紐を三度引いた。ちりんちりんちりん、と鈴が鳴り、静寂が残された。
キリアニルタはふと、ロックが多くを知っているのではないかと考えた。根拠は何もない、しかし唐突に、ロックは知っているのだと思い浮かんだのだ。何を。
(鳥のこと、か?)
門の向こう側に、中年の男が一人立った。どちら様ですか、と慣れた口調で問い、しかしすぐにはっと息を呑み、
「ええと、ロックです。……入っても、良いですか?」
ロックの押し殺したような言葉に言いかけた台詞を遮られ、慌てて首をやたら縦に振り、恭しく門を開けた。ロックはまだ躊躇っているようだったが、やがて腹を括ったように唇を引き締めると、決然とレステンドの敷地内へ足を踏み入れた。キリアニルタがそっと振り返ってみると、ユファランタは満足そうに笑みを浮かべ、なかなか動こうとしない弟へ言った。
「ほら。入らないの?」
「…………」
キリアニルタは無言で動いた。