壱章 アッテラ 05
「噂を聞いた」
「……へぇ」
何の、とユファランタは訊かなかった。言わずもがな、ユファランタは理解していた。とりあえずテーブルに座らせ、自分も座り、話を聞くことにした。
「飛ぶ、金属の鳥のこと」
「そっか。市場で、かな?」
首肯。ユファランタは、いつもの笑みに微かに真剣さを加え、しかしまだ面白そうに笑っていた。
「どんな?」
「この町の富豪の娘が所持。――本当に飛ぶらしい、見たそうだ」
「その富豪って?」
「ヴォガ・レステンド。娘の名はキャロンシーナ」
「ふぅ〜ん、会ってみたいね」
「レステンドは娘を溺愛する父、キャロンシーナは病弱で優しい娘だそうだ」
「うん。キリも会ってみたい?」
「…………」
「図星、か」
一つ、からかうように尋ねてみたところ、キリアニルタからは無言の肯定が送られてきた。ユファランタは完全に真剣な顔になると、眼を閉じ顔を伏せる。キリアニルタは、諦めた様子でうなだれていた。
かつて、故郷の村を追い出された頃。キリアニルタは一人の少女に想いを寄せていたことがあった。その少女も、キャロンシーナというらしい少女と同様病弱で、やはり思うところがあるのだろう。キリアニルタはなかなか自分の感情を表に出そうとしない。やるせない気持ちを、ユファランタは抱いた。
「じゃあ、カナルにも訊いて、良さそうだったら行ってみようか、レステンドさんとやらの館に、さ」
「興味、あるか? 鳥」
「そうだね。どうして飛ぶんだろう。誰が作ったのか知らないけど、是非教えてもらいたいね」
表情を完全に普段どおりへと戻し、ユファランタは笑う。カナルナータを見やるが、彼女はやはり気持ち良さそうに眠っていた。意見は聞けないと察したユファランタは(起こすという選択肢は存在していなかった)、これからどうするとキリアニルタに問う。陽は既に地平線に差し掛かっている。ランプに火を灯し、キリアニルタが答える。
「そろそろ食事だろう」
「どうしよう? 下の食堂で食べるの、キリは嫌かな?」
「……構わない」
「あ、一瞬悩んだじゃない」
「…………」
「そうだ、キリ。旦那さんに、お手伝いさせてもらえますかって頼んでみたら?」
きらり、とキリアニルタの瞳が輝いた。表情は相変わらずの無表情だが、ユファランタは一瞬の変化を見逃さなかった。すかさず立ち上がると、キリアニルタを促した。
「ほらほら、行こう。口添えするからさ」
そして半ば強引に、キリアニルタを階下へと連れて行く。笑顔で弟を連行するユファランタと、連行されながらも微かに嬉しそうなキリアニルタを見て、店主の男は奇妙な声をあげた。
「あれー? お客さん、なぁにやってんだぁ?」
「すいません。弟を手伝わせてやってくれませんか」
「おー? いやいや、お客さんに手伝わせるわけにゃあなぁ」
「いえ、弟はそういう家事仕事が得意なんです」
あえて、好きなんですとは言わなかった。
「腕は保証しますよ。お願いします!」
「ああ……分かった。いらっしゃい兄ちゃん」
最終的には店主の了解も取れ、キリアニルタはめでたく〈白鹿亭〉の臨時従業員になった。
「よし、兄ちゃん名前は?」
「キリアニルタ」
「んー、長いのな」
「キリ」
「きり? ああ、略称ね。よっし、よろしく頼む。じゃあ、まず皿洗いだ。頼むぞー、かなり溜まってるんだ」
まずは見習いからだった。
ユファランタは二〇九号室へ戻った。カナルナータは、まだ眠っている。はぁ、と一息つくと、荷物の中から分厚い書物を取り出した。色とりどりの付箋が挿まれている中から白いものを選び出し、そのページを開いた。読み始める。
かなりの時が過ぎてから、カナルナータが眼を覚ました。んぁー、と唸ると眼をこすり、読書中のユファランタを見つける。まだ寝ぼけた状態のまま、不鮮明な言葉で、
「あれー、ユフだー」
「おはようございます、姉上様」
「あー」
「何ですか?」
「おなかすいたー」
「じゃあ、食べに行きましょう。下が食堂ですからね。まずは顔をお洗い下さい」
あやふやな足取りで廊下に出ると、簡素な洗面所で言われたとおりに顔を洗う。備え付けのタオルで水滴を拭うと、突然眼が覚めたようにきゃっと叫ぶ。ばたばたばた、と廊下を駆け戻り、二〇九号室の扉を開けると、
「ほらユフ! 本読んでないで! 早く行くよ!」
「はいはい」
緩慢な動作で本を閉じ、立ち上がり、荷物の中へと戻し、としているユファランタに、カナルナータは悲鳴を上げる。
「きゃー! お腹すいたんだからぁー!」
今度は引きずられる側になったユファランタは、カナルナータと共に階段を駆け下りる。唖然とする店主の前を通り過ぎ、込み合う店内のテーブルを一つ確保することに成功した。カナルナータはがばりとメニューを開き、店員を呼びつけ、次々に品を注文していく。ユファランタは、頬を汗が伝うのを感じた。
「あんなに、食べたのに」
「良いの! 育ち盛りなの! 食べ盛りなの!」
「何だか、違う気がする……」
「気にするな☆」
そして次々に品物は運ばれ、主にカナルナータがそれらを平らげた。
「兄ちゃん、皿洗い上手えな!」
「…………」
「おーいだんまりかいな。まあ良いけどな」
「…………」
「よーし兄ちゃん、あっち手伝ってくれ! 一緒にやってる奴がな、新米なんだけども、今日休んでやがるんだ。だから」
「分かりました」
キリアニルタは、調理の補助をすることになった。