〈殺し屋〉綺羅
透き通る大洋の船
-Love is eternal,
He loves his family forever- 上
俺は風上圭太。不登校の高校生だ。
此処は海。おそらく、一般に『太平洋』と呼ばれている海だ。おそらくというのは、俺がよく行き先を知らないからだ。それは何故かと訊かれると、あの女のせいなんだ。
あの女っていうのは、船酔いしている俺を無視して甲板で潮風を浴びている、鉄色の髪の女だ。名前は“綺羅”。俺が付けた。
彼女はいつも行き先を俺に言わない。訊いても答えてくれない。だから、自分が今何処に居て、何処に向かっているのか、全く分からない。何処と訊かれると海と答えるしかないんだな。もう少し詳しく言えば、海の上の船。
「綺羅ー」
気だるげな声で呼びかけると、綺羅が振り返った。
「何ー?」
彼女の眼の色は、普通ではない。一般的にオッドアイと呼ばれるもので、右眼が紅、左眼が蒼だ。感情を見るという。其の眼のことは“
其の色の違う眼が、俺を見返してきた。とっても胡散臭そうに。
なんとなく呼びかけたもんだから、言葉が浮かんでこない。そのため俺が黙っていると、綺羅は不快そうに眉をひそめた。
「一体なんなのよ? 何かあるんなら言いなさいよ」
じゃあ……俺達の行き先は? とでも訊いてみるか。
「行けば分かるわ」
ああ、やっぱりその答えか。このように、俺が訊いたって『行けば分かるわ』で返してきやがる。いつもいつもだ。そのせいで、俺は知っているべき自分の居場所が分からないんだよ。読者に失礼じゃないか。
「うるさいわね。いつも行けば分かるんだからいいじゃないのよ」
よくねえから訊いてるんじゃないかよ。
「あらそう。じゃ、こう言えば良いかしら? 宇宙に浮かぶ地球という惑星にある人の塊の中の一つ」
分からねえ。
「じゃ、勉強なさい」
ぱっと切り捨て、綺羅は海の向こうに視線を転じてしまった。しばらくは声をかけても返事はないだろう。
大きな重たい溜め息をつくと、俺は船室に戻った。船酔いで酷く気分が悪い。備えてあった船酔いの薬を飲み下し、俺は寝具に転がった。客用の柔らかい毛布にくるまる。到着するまで寝てしまおう。
俺は気分の悪さを無視して目を閉じた。
「――圭太!」
ふと、自分を呼ぶのが小さく聞こえた。女の声。綺羅だ。
だるい体を何とか引き起こし、答える。
「何だー」
「早くなさい! 船を降りるわよ!」
おお、それはありがたい。と其の時は思っていた。『船を降りる』と聞いたら、大体は港に降りるというのを予想するからな。俺もそうだった。でも、そうじゃなかった。違ったんだ。
不幸なことに。
「降りるんじゃ……なかったのか?」
嬉々として甲板に出た俺を待ち受けていたのは、相変わらずの海だったのだ。陸なんて欠片も見えない。
「そうよ。此の船を降りるのよ」
と、綺羅は平然として言う。期待して損した。もしかして、船を変えるのか?
「そうよ。泳ぐとでも言うの?」
呆れたように見返され、俺は言葉を失った。こっちが呆れたいよ。
「で、どうして船を降りるんだ?」
「聴こえるのよ……悲しい、声が……」
と綺羅は言うが、違う。綺羅には聴こえるんじゃない、視えるんだ。悲しい想いが視えるんだ。それが、綺羅の能力だから。普通には聴こえない声を聴く能力じゃない。想いを視るという能力だから。
俺は彼女が言わないところまで理解して、訊いた。
「どっから?」
「あっち」
綺羅が指差したのは、一見何もない海。だが、綺羅には想いが視えているのだろう。いや、確実に視えている。彼女は迷い無く其の方向を指した。つまりははっきりと視えていて、自分の感覚に自信があるからなのだ。
「じゃあ、早くしてくれないか?」
「だから交渉してきたわ、船長と。ここで待っててくれって」
そして、綺羅は話した。この海には、幽霊船が出ると。しかも、綺羅が指差した方向だ。だから、綺羅が指差した方向に行く船はないのだと。
「幽霊船を確かめるのか?」
「さあ? 私には幽霊船が見えるっていうわけじゃないもの」
しれっと答える綺羅。確かに。綺羅に視えるのは霊だとかではなく感情なのだから。
「ま、もしかしたら視えるようになるかもしれないけどねー」
何あっけらかんと。怖くないのか?
「貴方と違ってね」
けっ。それだけ聞くと俺が弱虫みたいじゃないか。
「違うの?」
首を少し傾げ、綺羅は逆に訊き返してきた。その色の違う瞳で見つめられると、何時ものことだが、俺は反論できなくなる。どうしてだか良く分からない。これも綺羅の能力だなんてことはありえないとは思うが。
「兎に角、此処で待ってれば……来た来た」
彼女が言いかけたところで、船室からこの船の船長が現れた。もうほとんど白髪だ。しかし体はたくましく、短い袖口から伸びる手足はたくましい。彼は二隻、小さな木製の小舟を引きずってきていた。
「ありがとう」
「で、わしは此処でお前達を待っていればいいのだな?」
「そう。感謝するわ」
「いや、わしも最近めっきり仕事が減ってな。暇なんだ。帰ってきたら、何か話してくれないか? もちろん、生きてだ。幽霊になって帰ってくるのはごめんだからな」
「分かってるわよ、おじさん。死んだりなんかしないわ」
「そうだと良いが」
ふう、と船長は溜め息をついた。おそらく彼は、幽霊船話を信じているらしい。それは綺羅も同じだが。もちろん、俺は信じていない。自分の眼で確かめてからでないとな。そういうもんだろ?
船長が小舟を海に浮かべた。綺羅は船の縁から髪をなびかせて飛び降り、見事小舟に着地した。小舟が転覆することはなく、海に静かに波紋を作った。
「さ、貴方も早く」
呼びかけられ、俺は頷いた。船の柵に捕まり、注意深く体を下ろしていく。慎重に、慎重に、体を動かす。海に落ちてずぶぬれになんかなりたくはないからな。そんな俺を、綺羅は再び呆れたように見ていた。
俺は絶対無事だと確信できるところで、小舟に飛び降りた。それまで一言も発さずに見ていた綺羅は、いきなり文句を言ってきた。
「貴方もうちょっと素早く動けないの?」
当たり前だ。ろくに訓練もしてない俺には絶対無理だ。あんなの、綺羅だから出来ることなんだ。普通人間の俺に、そんなことを要求しないでくれ。
「ハイハイ分かったわよ! 全く、何時もそれなんだから……」
綺羅はそう言う。だが、俺だって同じことを思っているんだ。ほら、アレだ、『行けば分かるわ』。俺はあれにウンザリしている。綺羅は『訓練もしていない俺には無理だ』にウンザリしている、っていうわけだな。
綺羅は船長を仰いだ。
「では、行ってきますね」
「うむ」
船長は頷きで返した。綺羅はオールをこぎ始めた。
海は美しい。
青く、深く、透き通っている。海底はごつごつとした岩で埋め尽くされているはずなのに、それを感じさせない透明さ。波打つ水面は陽の光を反射して、白く輝いている。全てを受け入れるように思われる、生命の源である。全ての母である。
海は美しい。
「見て」
考えていると、綺羅が声をかけてきた。彼女が指差す方向を見ると、其処にはもう一つ、小舟があった。
乗っているのは若い男。日本人ではないだろう。何故ならば彼の髪は金色だからだ。日本人だったら黒か茶色だろ? 眼は青。綺羅のとは違う、明るい水色だ。
一人。たった一人だった。笑みを浮かべているが、其れはうわべだけだ。俺には感情を視るなどということは出来ないが、彼の周囲には哀しみが漂っている。静かな哀しみが。それは分かる。
「行ってみましょ」
俺の答えを待たず、綺羅は舟の方向を転換し、彼のもとへ向けた。
彼もこちらに気付いていた。オールを漕ぐ腕を休め、じっと待っている。
やがて俺達は彼の小舟に辿り着いた。綺羅が気軽に話しかける。
「初めまして。私は綺羅。こっちは圭太。貴方も幽霊船を信じてるの?」
おお、なんと大胆に訊くものか。
「貴方は黙ってなさい」
一瞬で斬り捨てられる。相変わらずだ。ガン、とノックアウトされた気分だ。
「どうなの?」
「キラに、ケイタか。良い名前だね」
男はよどみのない日本語で答えた。綺羅は綺羅で、まあね、と胸を張っている。すぐ調子にのるんだから。
「私はマーティルという。よろしく、キラ」
「よろしく、マーティル」
綺羅と男――マーティルは握手を交わした。俺はあぐらをかいてボーッとしていた。完全に除(の)け者(もの)だ。
「で、貴方も幽霊船を信じてるのかしら?」
「キラは、信じているのかい?」
「そうよ。だから、其処へ向かっているの」
「なるほど。信じる根拠は?」
「だって、悲しい想いが視えるから」
「Wow. 君は能力者なのかい?」
「そうよ、って言ったらどうする?」
「さあ。どうしようか」
二人の間では勝手に話が進んでいく。何時もしゃべりは綺羅に任せる。時には文句を言いたくもなるが、そのほうが楽だし、話は進むからな。
俺は半分上の空で、話を聞き流していく。しかし、思わず顔をあげる程驚いたのは、此の言葉だった。
「――私の父なんだよ、幽霊船の船長は」
いつの間にか寝転がっていた体を、思わずガバと起こしてしまった。それほど、俺は驚いたっていうことだ。
なんて言った? “父なんだよ、幽霊船の船長は”って、言ったよな?
じゃあ、綺羅と此の男が信じている幽霊船とやらの船長が、此の男の父親だっていうのか?
「そうなの。どうして、そう思うの?」
「何故かって、私の父の船は、幽霊船の噂が立ち始めた少し前に、失踪したからだよ」
「へえ。貴方はいいところのお坊ちゃんかなんか?」
「そうだ、って言ったら、どうするかな?」
「さあ。どうするかしらね」
何かその会話、さっきもなかったか?
「あったわよ。立場は逆だけどね」
そうか。そういや立場は逆だったな。
「さてと。そろそろ行きましょうよ」
綺羅はオールを漕ぎ始める。マーティルも漕ぎ始める。俺は再び寝転がる。酔いたくはない。
綺羅がオールを漕ぐ手を止めた。
「此処ね……此処から、悲しい声が聴こえる」
立ち上がった綺羅は言った。マーティルも舟を止め、辺りを見回している。俺はというと体を起こし、風になびく綺羅の髪を見ていた。
「In here…dad…」
マーティルが英語で呟いた。イン・イングリッシュだ。意味は、『此処で……お父さんが……』だろう。おそらくな。
「そう。此処で、貴方のお父さんの船が難破したの」
そう言う綺羅の横顔は、何時になく真剣だった。しばらく遠くを見ていた綺羅は、突然はっと息をのみ、もの凄い形相で振り返った。
「圭太! しっかり掴まりなさい!」
とっさに俺は船べりにしがみついた。綺羅も舟底にしゃがみ、意味が分からなさそうなマーティルも従っていた。
一瞬。
俺は体が宙に投げ出される感覚に陥った。海が頭上にある。空が足元だ。状況が分からないまま俺は吹っ飛ばされ、深い海へと投げ出された。
To be continued...