第零章 01
最初に感知したのは、冷たさだった。
横たわる身体の下に、冷たい床が広がっていた。硬い石でできていることを、私は見ることなく理解していた。
次に感知したのが、水音だった。
水面に落ちて波紋を広げるように、音を反響させて何処かで雫が滴っている、イメージが湧いた。
次に嗅覚。
清らかな水の匂いが、微かに感じられた。
次に味覚。
吸い込んだ空気からは、水の味がした。
そして、視覚。
目蓋を持ち上げて捉えたのは、暗い場所。床も壁も、こつこつとした石で構成されている。いくつかの方向へ、道が折れ曲がって伸びている。私は腕をついて身体を起こした。背筋を伸ばしてみると、心地よい痛みが全身を満たした。
コツリ、コツリ。
硬いものが石と合わせられて立てる、硬質な音。水音と重なって聴こえ始めたそれに、私は耳を澄ませた。だんだんと、こちらへ近づいてくる。それが決して私に危害を加えることはないと、やはり私は誰に言われるまでもなく理解していたのだ。
姿を見せたのは、人間の老人。動作には隙がなく、それでいて緩やかで穏やか。髪は完全に白く染まっているが、その体つきからは精悍さが失われていない。無駄な装飾のない衣服を身に纏っている――上衣の袖は短く、下衣もすこし広がりがあるとはいえ短い、腕や脚、首のいずれにも装飾品はない――男性だ。彼は私に歩み寄ると、呟くように言った。
「ふむ……ブルー、か……」
ブルー。とは、何だろう。
「セイ、と呼ぼう。青にかけて、清らかであるように……」
願い事をするように囁いてくるが、私にはその単語の意味が分からなかった。
「日本へ、行きなさい。南北に長い島国だ。良い男が見つかると良いな」
南北。島国。
それだけ。
それだけで、私は私の行くべき場所へ想いを馳せることができる。そこで何かが私を呼んでいるのだ。不明瞭な憧憬と鼓動の高揚がどうにも抑えきれず、私は大理石に爪を立てた。がり、がり。削られるような音がした。身体の奥底から湧き出てくる衝動に突き動かされるように、私は立ち上がった。最初は力が入らず、揺らめき、しかしすぐに踏みしめて。
「行け、セイ。お前をお前自身が導くだろう」
男の声を残して、私は駆け出した。迷路のような道なのに、迷わずに進めるのが不思議だった。躊躇っている暇はない。私は、行かなくてはいけない。ただそれだけを胸の内で唱えながら、私は
頭上から指す眩い太陽が、光に慣れていない私の眼に痛みを伴って差す。涙は溢れ出るままに任せ、背から生えた翼を羽ばたかせる。少ない障害物をぼやける影で判別して避けつつ、広い宙を舞った。身体をひねる。不鮮明な視界が一回転する。雲を抜けた。眼下に広がる青い水面。海。
喉から、歓喜の咆哮が迸った。外の世界。ああ、何て心地よいものなのだろう。表皮をすり抜けていく風、巻き上がる海の匂い。鼻腔から吸い込む空気に含まれたそれらを、肺で反芻し、味わう。そんなことで、腹が満たされるような気がする。
嬉しい。
飛び続け、やがて見えた、そう、日本という南北に伸びた島。私は眼を閉じ、何も考えまいとした。肉体が、拡散していく。細かい塵のようになった私は、ひたすらに地上を目指した。
再び私が肉体を取り戻したのは、とある山中だった。
どちらかといえばごつごつしていた先ほどまでとは違う、すらりとした身体。頭部から、髪と呼ばれる長い毛が垂れている。ちょっと刺激を加えただけで切れてしまいそうな薄い皮膚。胸の小さな膨らみ。そこから脚の中ほどまでを覆う、筒状の白い衣服。
しばし自分を眺め回してから、私は山を降りた。裸足の足は、やはりすぐに傷だらけになってしまった。この程度は些細な痛みだ。無視して先へ進む。程なくふもとに辿り着いた。曲線を描く道へは降りず、私は木の幹に寄りかかると、手で右足を包み込んだ。そっと念を込めると、かすり傷はたちまち治った。次に左足。その指を頭部へ持っていくと、髪のほつれを直した。
この体勢は楽だ。私の一方的な待ち人は、ここを通りかかるだろうか。一瞬だけ不安がよぎった。……大丈夫。来る。だって、そんな予感がするから。大丈夫、来る。どんな姿をしているのかも知らないけれど、でも出会えばきっと分かる。人間達は妙な名称を付けて呼ぶ。
私がたった一人心を預けられるひと。
きっと、出会える。
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