第壱章 04
散歩を切り上げて自室前に戻ってきた二人は、帰室の前に自然とネームプレートに目をやっていた。
隣室のネームプレートには、
楸鈴音
白石洸夜
と記されていた。真に鈴音は隣人のようだ。
「ふうん、白石洸夜ね……」
もう一人の隣人の名を確認し、名を唇に載せる。どのような人物だかは知らないが、果たして鈴音の奇天烈さについていけるのだろうか、と少し心配になった。そう、奇天烈。雰囲気の悪い言葉だが、クリスはそのような印象を鈴音に対して抱いていた。
次いで、自分達のネームプレートを確認する。
日岡玖璃栖
日岡眞里亞
「何故にこんなややこしい字を当てられたかなあ……確かにクリスって読むんだろうけど、さすがに難しすぎないか? もっと簡単な字があると思うんだけどなあ……なあ、マリア」
マリアが首を縦に振ることで示したのは同意。クリスは再び木の板に視線を這わせ、刻まれた二つの名前を辿る。ひおかくりす、ひおかまりあ……
「あれ?」
『クリストファー・ヴェネーロにマリア・ロザリー?』
脳内に響く、彼女の呼びかけ。
「あいつ、どうして俺達の本名、知ってたんだ……?」
ロムテ連邦国では、二つの名前を持つことは決して珍しくない。幾つもの小国が寄り集まってできているこの国は、公用語を二つ定めている。それらの表記に用いられるのが、大陸全体で用いられるアルファベータ文字と、ロムテの南から伝わり北へと伝えた廣潭文字である。
日常的に廣潭文字を用いる地域では、ほとんど変わらない発音でアルファベータ文字表記できるため、名前は一般的に一つだ。対して、アルファベータ文字表記が主な地域の名は、廣潭文字表記にするのが難しくなる。その場合、発音が大いに異なる名前を用いることになる。クリスやマリアがその例だ。
ヴィンターゲシュというアルファベート系統の名を持つ学校がそうする理由は不明だが、ネームプレートは廣潭文字で記されている。それを見て会いに来たという鈴音が、二人のアルファベータ名を知っていた。明らかにおかしなことだ。
「何なんだ、鈴音って」
とはいえ、思考を巡らせたところで答えが見つかるわけではない。こればかりは鈴音本人に訊かなければ分からない。しかし、訊いたところで彼女が素直に答えるだろうか。いや、答えないだろう。何やかんやと誤魔化して、最終的には有耶無耶にしてしまうだろうと目に見えている。
「保留……だな。俺に分かるわけがないさ」
早々に切り上げ、クリスは自室の鍵穴に鍵を差し込んだ。奥で錠が作動するのを指先に感じる。この感覚が、クリスは好きだった。太陽の家にいた頃は、鍵など扱ったことがなかった。自分の鍵を所持し使用することはクリスにとって憧れであり、寮のものというある種仮初ではあるが、充分にそれで満たされていた。
ぎゅむ、と左頬に鋭い圧迫感を感じた。そちらに目をやると、マリアが心なしか頬を膨らせて、人差し指をクリスの頬に突き立てていた。動きを止めて探ってみると、無意識に悦に入っていたらしく口元が不完全に吊り上がっていた。
つんつん、とマリアの催促。扉の鍵を開けたまでは良いものの、クリスがその先に進まず自分も中に入れないことがご不満のようだ。ごめん、と謝りながら扉を開くと、マリアはふわりと笑ってクリスを許した。クリスが開けた道を、マリアは軽い足どりで辿っていった。自らも扉の内側に入り込み、再び錠を下ろし、クリスは微風に揺れる透明な長い髪を追った。
特にやることがあるわけでもなく、寝台に身を投げ出すと自然鈴音のことが脳裏をよぎった。保留と決めたことだからと言い聞かせながら目を閉じるも、彼女の声が甦り反響するように巡る。
『クリストファー・ヴェネーロにマリア・ロザリー?』
『またね、マリアちゃん、クリス少年』
馴れ馴れしい態度。何もかも見透かしたような瞳。笑んだ口元。
「うあー」
思わず呻き、クリスは頭を抱え込んだ。もう一方の寝台に腰掛けてその様子を見守っていたマリアが、目をそっと見開いて上半身を傾けた。その仕草に気付いたクリスは、体勢はそのまま視線だけマリアに向けて、安心させようと言葉を紡ぐ。
「ごめん、大丈夫。ちょっとね」
するとマリアは寝台から降り、クリスの金髪に細い指を差し込んだ。撫ぜるように掻き回す動きに甘えながら、ふと湧き起こる衝動に任せて口にする。
「鈴音のことが頭から離れなくてさ。あいつ、良く分からないんだもん。……大丈夫、ちょっと気になるだけだから」
入学日まで、あと五日。