第零章 01
銃声が谺する。
角ばった建物。嫌味なほど白く、夜明け前の暗がりでも浮かび上がってくるようなそこから、二つの人影が飛び出した。少年と少女、どちらも十代前半ほどに見える。二人は黒い衣服を身に纏い、フードを深く被って顔を隠すようにしながら駆けていく。
そしてその後を、迷彩服に編み上げブーツ、両手で銃を抱えた男達が騒々しく追った。
建物の周囲を巡る柵を飛び越え、木々の間へと少年と少女が駆け込む。小柄な二つの影を、木々の落とす大きな影が覆い隠そうとする。最近作られたような新しい、その上を緑の蔓植物が這う道は細く、左右の茂みは起伏が激しく、逃げる二人の姿を溶け込ませていく。
タァン!
大人に不利なその地形に、短気な軍人が一人、銃に火を吹かせた。吐き出された弾は近くの木の幹を抉り、あらぬ方向へ弾かれていった。「気をつけろ!」と誰かが強く囁いた。銃を撃った本人は、ちっと舌打ちをして逃走者を探した。
身を竦ませた少年と少女は、それでも足を止めることはなくただ走った。追ってくるのは不良であっても仮にも軍隊なのだが、予想しなかった事態に対してあまりにも統率力に欠けていた。第一、彼らの仕事は逃走者を捕らえることではないのだが、それは逃走者にとっては好都合なことである。
その中でも、一人ぐらいは行く手を塞ぐのだ。
じぐざぐに逃げる二人の背後に攻め寄った一人の男が手を伸ばし、後ろを走る子供――少女のフードを掴みかけ、寸でのところで逃げられた。しかし、その結果フードは少女の頭部から滑り落ち、透き通るような銀髪がぶわっと舞い上がった。
「きゃ」
戸惑うように足を緩め、小さく悲鳴をあげた少女の髪を、男は力任せに捕らえた。そのまま吊り上げるようにすると、足が浮きかける。髪を引かれる痛みに呻きながらも、身を捩って抵抗しようとするが、少女と男では力の差がありすぎた。
「マリア!」
少女の悲鳴に、少年が叫び身を翻した。フードを押さえる手を離し、ボトムのポケットから短刀を取り出すと、鞘から素早く抜き放ち、逆手に持って男と少女の接点へ攻め込む。男のごつい手に赤い線が一本はしり、少年の腹部に男の膝が浅く入った。少年は飛び退ることでそれを避けると、再び男へと向かった。
「動くな、武器を捨てろ。娘がどうなっても良いのか」
その間に男が言ったが、少年は聞く耳を持たなかった。少女の耳元で「ごめん」と謝罪し、いささか乱暴に狙ったのは、男の手ではなく少女の髪だった。ぶちぶち、と音をたてて髪が千切れ、解放された少女が地面に倒れこむ。急激に軽くなった手元と、その指に握りしめられた銀の髪をしばし見つめていた男は、こめかみに青筋をたてると標的を少年へ切り替えた。低く怒声をあげようとする。
「このっ、餓鬼――っ」
次の瞬間、男は悶絶しながら地に這いつくばっていた。身を起こした少女の足が、彼の急所を的確に打ったのだった。少年が、駆け出しざまに少女の手首を取り、頬を紅潮させた。
「マリア、ナイスだ!」
少女も微笑み、少年の手を握り返した。その背後――建物の方向から、たんたんっと軽い音がし、二人の脇を銃弾が掠め去った。再び発砲音。今度は先程よりも近い。少しずつ、だが確実に、銃を手にした男達は二人に迫っているその証だった。
「くり……すっ」
「どこかに、どこかに……隠れよう」
少年の提案に少女が頷き、身体を近付けた。辺りを見回して、見える範囲内に自分達以外誰もいないと確認すると、子供二人分が隠れられる大きめの茂みに潜り込んだ。焦った手つきで枝を掻き分け、手足を縮めるのだが、細かく枝分かれした枝はちくちくと二人の肌を刺し、体中を傷だらけにしていく。その痛みを我慢して、二人は息を潜めた。
怒鳴る、喚く、耳障りな沢山の声が近づいてくる。やがて足音。茂みに隠れて頭を低くする二人のすぐ近くを、黒い染みのある茶ブーツが地面をこすっていった。数人が通り過ぎ、その全てが二人には気付くことがなかった。足元の茂みに隠れているなど、予想もしていないのだろう。無理矢理に潜り込んだが、実は案外きつかった。少年も少女も、充分すぎる栄養を与えられていないのもあり痩せた体型をしていた、それが功を奏したようだ。
少年がそっと腕を伸ばし、指先で少女の髪に触れた。先ほど、彼が短刀で切り裂き、短くなった髪だ。細くさらさらとしたそれは、するすると少年の指をすり抜けていく。少年は申し訳なさそうな表情を幼い頬に浮かべた。
「悪いな、かなり強引にやっちまって。――ちゃんと切り揃えような」
小さく頷いた少女の後頭部をぽんぽんとあやすように叩くと、少年は注意深く茂みから忍び出た。ちらちらと周囲に気を配りながら、左掌を上向け少女を手招く。少女も茂みから這い出ると、身を起こして衣服のごみを払った。青ざめた頬と震える唇に、少女の怯えが顕著に現れている。少年は噛み締めた唇を引き結び、少女の首元に手を伸ばして再び軽く叩く。それを繰り返す内、浅かった少女の呼吸は徐々に落ち着きを見せ始めた。
それから少年は立ち上がり、少女を促して木の幹に身体を押し付けた。一連の動作で脱げてしまったフードを目深に被り直し、青空色の瞳で辺りを探った。指先に、少女のそれが触れてきた。二人は互いの手首を掴み、二度と離れまいとするかのようにきつく握り合うと、少年の先導で木々の間を歩き出した。