1「あの山を越えた先に、彼女が待ってる」
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翌朝、先に目覚めたのは風花だった。いつもと違う部屋の内装に一瞬だけ戸惑い、すぐに家を出たのだと思い出す。まだ薄暗い室内、ついてきた珀桐がまだすやすやと眠っているのを確認すると、ゆっくり息を吐き出した。窓を開け、深呼吸を数回繰り返し、軽く身体を伸ばした。それから、珀桐を揺り起こす。
「……? はっ、ふ、風花様!」
風花に起こされた珀桐は、心底恐縮したように飛び上がり、自分を取り巻く環境の違いにやはり驚き、しばらくあたふたとしていた。安心させるため、風花は笑いかけた。
「おはよう、珀桐」
「おはようございます、風花様。……ね、寝過ごして、しまいましたか? あっ、はい、すぐ仕度します、はいっ」
「大丈夫よ、まだ時間は早いわ」
珀桐の様子に苦笑を浮かべながら、風花は寝台を整える。それから、昨日から着たままでいる服を伸ばし、濡らした布で顔を拭く。珀桐も同じ行為を行う。陽は昇り、完全に姿を見せた頃、風花は荷物を取り上げた。
「行きましょうか、珀桐」
「はい、風花様」
この時には既に珀桐の準備も整い、二人は宿を出た。
「珀桐、実は食事、何も持ってないの」
「僕も、です」
「まだお店も開いてないみたいだし、買えないからしばらくお腹すいたままだけど、大丈夫?」
「はい。全然大丈夫です」
南へ進むごとに、町は多く広くなっていく様子が、地図には描かれていた。それに自信を持つと、二人は南へ出発した。
人通りの少ない道を、黙って歩いていく。風花も珀桐も文句を言わず、ただ黙々と歩き続けた。運の良いことに、途中に出店があった。物言いたげな珀桐の表情を見て、風花は立ち寄ることを決めた。
売り子の青年は、この先の町から出張で来ているのだという。そろそろ片付けようとしていたからぎりぎりだね、と言われた。風花は、二人分の硬パンを購入し、半分を珀桐へと手渡した。珀桐は、安心して美味しそうに食べていた。風花は、半分だけかじって後は残しておいた。
行く方面が同じなため、風花一行と出店の青年は一緒に歩くことにした。車を引く青年に、風花は話しかけられる。
「もしかして、違ったらごめんなさい。白の風花さんですか?」
「……はい。そうですが」
「良かった。人違いだったらどうしようかと」
「いえいえ」
「いや、僕一度会ってみたかったんですよ。どんな子なんだろうって」
心底嬉しそうに笑う青年に風花はきょとんとし、その時小さく袖を引く手があった。珀桐だった。風花は振り返って尋ねた。
「どうしたの、珀桐」
「ナンパされないでくださいね」
「難破?」
「いえ……なんでもないです」
小声で会話を交わすが、珀桐はすぐに諦めたように口をつぐんだ。疑念を残したまま、風花は前を向く。何故難破が出てきたのだろう? 海にいるわけでもなく、地面は緩やかな下り坂が始まっており、青年は腕に力を込めて滑り降りようとする引き車を食い止めようとしていた。
「あ……手伝いましょうか?」
「いえ、大丈夫です。いつものことですから」
「そうですか」
言うとおり、青年はとても手馴れた様子で力の調整をしていた。風花はそれを眺める。三人が坂を下り始めてからそれなりに経ち、それはほぼ水平へ戻った。青年はふうと息を吐いた。
「もし良かったら、貴方の名前をお聞かせ願えますか?」
「いえ、僕ごときの名前なんて、貴女には勿体無いですよ」
「そんなことないです」
青年はしばらく笑顔で悩んでいたが、やがて一つ頷いた。
「シュセンテン……茱泉典です。朱い草に、泉と、辞典の典」
「茱泉典……ですか。素敵な響きですね」
「どうもありがとうございますー。ええと、茱は木の意味も込もってるんで、木を発展させる水で、あと泉のように湧き出る知識みたいな意味で、つけられた名前です」
泉典は、聞いていないことまで一気に語った。風花は笑顔を苦いものに変え、しかし聞いていた。長話というものに、風花は慣れていた。父は、風花にとって興味のないことや嫌なことまで延々と喋ることがほとんどだ。逃げ出すこともできず、風花はただそれを聞く。もう、慣れていた。さして苦になることではなかった。
むしろ泉典の話は、風花にとって面白いことであった。
聞いて、思う。
(風花……由来は、何だろう)
そして、自嘲。
(どうせ、この髪の色だ)
左手で、持つ。視線に、翳す。
(雪のように、儚く散ってしまえ……だろうな)
自分で考えたことながら、想ううちに重く苦しいもので胸が押しつぶされそうな感覚を抱いていた。今の風花が泣くことはないが、もし心が弱かったらこんなところで泣いていたんだろうな、とかすかな恥ずかしさと誇りを風花は覚えた。