1「あの山を越えた先に、彼女が待ってる」
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風花は一人で家を出た。周囲からも言われるが、かなり腕も立つ。“白雪”も腰に落ち着き、それさえあれば風花は安心できた。冷たい柄(つか)に左手をかけ、しかし抜くことはせず、秋の風が吹き付ける中歩き出した。
近頃は、少しずつ朝晩の冷えが酷くなってきている。日中は肌にちょうど良い気温、この地域ではそれはまだ秋の始め頃の気候である。冬は、まだまだ先。しかし、ただでさえ雪が降る時候は早い。北へ行けば、さらに早いのだろう――そして、風花は旅に出ることにした。
母はどちらかと言うと放任主義。やりたいことはやりなさいと言ってくれる。それで嫌な思いをしても、それが自分で選んだ道、自己責任なのだと教えてくれた。子供のやることに、ほとんど手は出さない。それでも、気持ちの上で応援してくれていることは知っていた。だから、風花は母が大好きだった。
父は、母とは正反対だった。たった一つだけの道を示し、行くべき場所を見通して、そこへ向かわせようとする。その先が、正しいのだ。子供がどれだけ嫌がっても、やるべきことだけをやらせようとし、そして正しい。だから、風花は父が大嫌いだった。
母と父が一緒にいる時は、少ない。大抵離れている。それを二人とも受け入れていた。仲が悪いわけではなく、ただ父は“一緒にいる”必要性はないと考え、母はそこまで他人に干渉しようとしない、その二つの統合した結果だった。風花は、両親の幸せそうな表情を見るのが好きだった。その時だけは、風花も父のことを好きだと思えた。
しかしながら、ただでさえ最近はめっきり二人が会うことはない。顔を合わせるのは食事の時だけ。風花の父に対する不快感は、ますます増えた。
だからこそ、母にはきっちりと挨拶をし、父にはせず、また父のいない今日に旅立つのだ。貴方の指図は受けない――風花の、言葉にしない挑戦状のようなものであった。そして、風花も母もそれを良しとした。それが、風花にとっての標だった。
父親の作った道から逸れて、籠から逃れて。それを良しとした。
「大丈夫。私は私だから」
そっと呟くと、風花は“白雪”から手を離して荷物を背負いなおした。しっかりと前を見ると、そこの厚い長靴を鳴らして歩き出した。
始めは順調だった。
しかし、予想もしない“異分子”が、風花の前に現れた。
「――風花様!」
今朝聞いたばかりの声に、風花は眩暈がする気がした。本当に、全く、予想だにしていなかった。彼は馬鹿正直だから、何も言わずに出てきたのに。さっさと置いて出てきたのに。何故だ。何故だ。いつばれた。
風花はゆっくりと振り返った。
「……珀桐」
「風花様! 何処へ行かれるのですか?」
珀桐の琥珀の瞳が、いつもよりも細くすぼめられている。しかし、彼には威厳というものが全く欠けているし、その程度で怯む風花でもなかった。風花は、珀桐以上に眼を眇めた。半分、無意識だった。
「何処であっても貴方には関係ないでしょう、珀桐。……屋敷に戻りなさい」
「嫌です」
珀桐は、風花の意思に反した。
「だって風花様、いつものお出かけとは違うでしょう? 何処へ行かれるのですか。旦那様にはおっしゃったのですか?」
「関係ないわ」
「風花様!」
「だってそうでしょう? 貴方も、あの人も。あの人がどうだというの。これは私が自分で決めたことだから。邪魔しないで」
ひっ、と珀桐が息を呑んだ。普段ならば、彼はここで退くはずだった。しかし、今日の珀桐はやけに押しが強かった。再び眼に力を込めると、精一杯といった風体で風花を睨みつけた。
「関係なくなんてないです! 何でですか、何でご自分一人でやろうとするんですか! もっと頼って下さいよ。そのために僕はいるんです。僕は風花様に、一生ついていくって、決めたんです!」
珀桐は、風花の従者を自称していた。あくまでそれを押し通すつもりらしい。風花としては、珀桐を連れて行きたくなかった。珀桐には、そこまでの実力がまだ備わっていない。となると、足手まといになる。風花以上の知識も知力も持っていないし、この行路に彼は不必要だから……。
と、そこまで考えて風花は苦笑しそうになった。何だ。『不必要』? そんなことを言っていては、必要性だけを求める、自分が嫌っている父親と同じではないか。それは、断じて嫌なことだった。では、それに抗ってみせよう。もしかしたら、珀桐は自分に必要なのかもしれない……いや、必要不必要は関係ない。実力も関係ない。人柄を見れば、風花は珀桐についてきてほしかった。それに。
風花は珀桐を見やると、笑って頷いた。珀桐の瞳が、輝く。
「風花様!」
「仕方ないから、連れて行ってあげるわ。それからその姿……無理にでもついてくるつもりだったんでしょう?」
「あ……やっぱり、ばれちゃいましたか?」
珀桐の姿は、完全に旅装だった。そんなに多くない荷物を抱えて、防寒用に皮の長衣を纏っている。そこに、風花は珀桐の意思の強さを見出した。いつの間にか、珀桐はたくましい少年に育っていた。小さい頃の珀桐の姿を思い浮かべ、風花は今度こそ苦笑した。転んだだけで大泣きしていた幼子は、今はこんなに大きくなった。人間は成長するものなんだな、と実感した。