0「終わりがあるから始まりがある」
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遠い春の日、父さまが私につけた理科の教師が語ってくれたことがある。
それは幼い日のことながら、今でも鮮明に思い出せる出来事で、つまりとても印象深かったのだと思う。まだその当時は理解できなかったけれど、彼の言葉だけはしっかりと耳の奥に残っていて、思い返した今やっと意味が分かってきたような気がする。
「先生」
「何でしょう」
「どうしてうちには雪が降らないのですか? 私見てみたい」
「雪……ですか……」
私が現在も暮らしているこの地方には、雪が降らない。地理的に、どうしても空中で融けて水滴――雨になってしまうのだと今では分かる。けれど、それがまだ分からなかった私は、本や何かでよく出てくる雪というものは白くて、冷たくて、空から降ってくると聞いていたから、一度はその様を目にしたいと思っていた。その日の話はちょうど天気のものだったから、訊いてみようと考えたのだ。
私の無謀な要求に、まだ若い彼は真剣に考えてくれた。
「大きくなったら、北へ行ってごらんなさい」
「北?」
「そう。太陽が背中になるように、立ってごらん」
正午時。立ち上がり庭へ出て、言われたとおりにしてみたところ、正面に向かった方角が北だ、と教えられた。
「あの山を越えて、もっと先へ行ったとても寒い地方になら、雪は降りますよ」
「そこまで行ったら見れるのですか?」
「そう。でも、大きくなってからじゃないとね」
「それはどうして?」
「寒い地方じゃ、小さなあなたは凍り付いてしまうかもしれませんからね」
「そうしたらどうなるの?」
「動けなくなって、もしかしたらもうお父様、お母様に会えなくなるかもしれませんよ」
「それって怖いですね」
「そうですね。だから、寒さにも耐えられる強い体を作ってから、行ってごらんなさい」
「はい」
素直に頷いた私は、満足して再び机に向かった。天気の話に戻る。雪が降るという北の地方はどんなところなのだろう、もしかしたら皆白いのかしらと想像をめぐらせていると、ぱこんと軽く頭をはたかれた。勉強のほうがおろそかになっていたらしい。
「こら。集中しましょうね」
「先生」
「はい」
「大きくなったらって、何歳ぐらい? 何歳になったら強い体になるの?」
私の質問に、先生は少し困ったようだった。しばし考え込むと、私の眼をじっと覗き込んで、口を開いた。
今までで私の眼をしっかりと見てくれる人なんて、いなかった。
「それはね。あなたの努力次第で早くもなりますし、遅くもなりますよ」
「どりょく?」
「そう。勉強や、本を読むこと、字を書くことも大事です」
「うん」
「しかし、外へ出て体をしっかりと動かすこともとても大切なことなのですよ」
「体を動かす? 体操とか?」
「それも良いですね。他にも、友達と走り回るとか、ボールで遊ぶとかでも構いません」
「うんうん」
「体を適度に動かすと、体は自然と強くなっていくのです」
「てきど?」
「ちょうど良く、ということですよ」
「体を、ちょうど良く、動かす」
「そうです」
頷いて、彼はにこりと笑った。首を傾げた拍子に、太陽の光が彼の髪を透かして煌めいた。綺麗だな、とぼうっとした頭で私は思った。
「もちろん、雨や寒い日は外に出れませんし、風邪をひいた時はゆっくり休むものですよ。強い体を作りたいのならば、外でよく遊ぶようにしましょう、特に晴れた日は、ね」
「分かりました」
そこまで聞いたところで、部屋の時計が低く鳴った。それで、勉強の時間が終了したことに気付いた。彼は、今日の進みは悪かったから次回はもっとしっかり取り組みましょう、と反省を告げて去っていった。
また別の日には、植物についての課外授業が行われた。
我が家の広い庭で、小さな花を見つけてはこれは何という名の草だと教えてもらう。その花を、前に庭を駆け回っていた時に踏みつけたような気がして、植物には痛覚がないのかと気になり始めた。
「植物が痛みを感じるか? どうでしょう……でも、辛いと思いますよ」
「辛いの?」
「ええ。だって、自分の体が傷つくんですよ。見ていて痛々しくはありませんか?」
「いたい。じゃあ可哀想なことしちゃったのでしょうか、私」
「大丈夫ですよ。植物は踏まれたくらいではへこたれないですから」
「へこたれない?」
「負けないということですよ」
「へぇ。植物さんってすごいんですね」
「ええ。まあ、そのようにして命を落とすことだってありえますから、植物は沢山子供を残そうとします」
「植物さんに命ってあるのですか?」
「ええ、植物にも命はありますよ。いつどのようにして死んでしまうか分からないから、植物はホラ……沢山の種を作るでしょう?」
「はい」
「それらが植物の子供ですよ」
「でも、自分はいつか死んじゃうのでしょう?」
「ええ。でも考えてみましょう。それは人間も同じでしょう?」
「あ」
気付かなかった。考えてみれば、命があるのは人間も同じだ。まだ身近で命を落とした人はいなかったから、あまり実感はなかったけれど、そうだ、人も死ぬんだ。
「じゃあ、父様も母様も?」
「いつかは……でもまだまだ大丈夫ですよ。それに、お二人の血を受け継いだあなたがおられますから」
「ちをうけつぐ?」
「難しいかもしれませんが、生き物はみな全て自分の血筋を残そうとするのです。命あるものはみないつか死んでしまう。けれどその代わり、子供という形でその種族を残そうとするのです」
「よく分からない」
「まだ、それでも良いのですよ」
「しゅぞくを残したいなら、死ななければ良いのに」
「そうですね。でも、神様が決めたことですから」
「神様にお願いしたら、死なないようにしてくれるかな?」
「それはまた難しいですよ。死ななくなったら、子供だって生まれません。皆年寄りです」
「みんな、おじいちゃんおばあちゃんなの?」
「そういうことです」
「じゃあ遊べないのかぁ」
「覚えておいてもらいたいことがあります」
「何ですか?」
「全てのものは終わりに向かって動いています。それを絶やさないように、新たなものを生み出すのです。終わりがあるから始まりがある――このことを、忘れないでください」
「おわりがあるからはじまりがある、んですね」
「そのとおりです」
「分かりました」
実際にその意味は分かっていなかった。けれど、そう答えなくてはならないような気がしていた。
ある、晴れた春の午後。