紅耀燐 白風花 黒冥螺  
   

五界姫譚 紅耀燐

2「運命は、動き出してるの」

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 あの後しばらく待っていたのだが、晋延と話していた清浪が耀燐を訪れることはなく、また帰って来た気配もなかったため、耀燐は先に寝台へ身体を横たえ、眠った。
 その間、清浪と晋延とは、場所を玄関口から晋延自室へと移し、話を続けていた。その空気はぴんと張り詰め、晋延が常に浮かべている笑みも、ない。清浪にいたっては、表情は相変わらずなのだが、声音がきつくなり、彼にとって非常に重要な話題であるらしい。どちらの眼差しも、いかなる堕落をも受け入れない光を宿していた。
「耀燐が気付かなかった」
 半ば呆然としたように、清浪が言う。
「あれは、只者じゃない。姿を確認することはできなかったが、晋延殿もどうかよく注意していただきたい。ご用心を」
「分かりました。私達も、そうそう無下にやられるつもりはありませんからね。見つけたら、捕らえましょう」
「ありがたいことです」
「現状では、その者が私を狙っているのか、はたまた耀燐殿を狙っているのかは分かりませんからね。どちらにしろ、警護を厳重にしましょう」
 晋延は、机に両手をつけて頭を下げた。清浪もそれに倣うと、立ち上がる。扉の前で一礼すると、清浪は廊下へ出た。
 夜も更けてきた時刻。かなり長い時間話し込んでいたため、廊下は気温が下がって冷たい空気で満たされていた。しんと静まり返った、明るい廊下。こつこつと音を鳴らして、清浪は自分に与えられた部屋へと向かった。
 昼間耀燐と出かけた際、清浪は異様な気配を感じ取っていた。それは微かなもので、しかしじっとりと耀燐を嘗めるように追ってきていた。耀燐は全く気付いた素振りを見せなかった――実際気付いていなかっただろう――が、清浪は気配に敏感な体質だった。何かが見ている、というのはすぐに感じ取れた。
 しかし、相手は巧妙に姿と気配とを隠していた。
 耀燐だって、決して弱いわけではない。むしろ、強い部類に入るはずなのに、気付かなかった。
 相当の相手、というわけだ。
 まだ危害を加えようとはしていなさそうだが、悪意があることは間違いがなかった。耀燐の身を危惧した清浪は、晋延へと進言したのだった。
 清浪は深く息をつき、自室の扉に手をかけた。
「――っ!?」
 途端、背後に気配を感じて振り返った。
 少女が、立っていた。
「お前は……」
「建、清浪殿」
 静謐とした表情に、落ち着いた声音。漆黒の髪を後頭部で結い上げ、青菫(すみれ)色の瞳を真っ直ぐと清浪へ向けた少女だった。年頃は、耀燐よりも一つ二つ上程だろうか。その様相から、晋延の使用人の一人であると思われるが、その雰囲気は只人(ただびと)とは違った。
「何か用か」
 昼間、耀燐を見張っていた者とは違うと判断したが、気を抜かずに清浪は眼を眇めた。少女は表情を変えることなく、紅を引いた唇を薄く開いた。
「貴方は何者ですか」
 その問いに、清浪はさらに目元を険しくする。『何者か』と。何が訊きたいのか。心当たりはあったが、それを容易に知られることは望ましくない。剣呑な響きを声に滲ませ、清浪は威嚇した。
「何が言いたい」
「貴方は、人じゃない」
 そこまで言われれば、さすがの清浪も眼を見開いた。それも微かな変化だったが、少女はやはりそれに目を留め、眉を軽く上げた。心持ちほっとしたように、少女は続けた。
「そう凄まないでほしい。私は、貴方に危害を加えようとは思っていないから」
「用は、何だ」
「貴方は、何者ですか」
 二度目の問い。相手に呑み込まれない。清浪は思わず舌打ちしたくなった。やはり、只者ではないのだ。こういう場に、妙に慣れている感がある。このままでは堂々巡りになりそうだった。
「お前は、何者だ」
「私は晋延様にお仕えする一介の人間です」
「…………」
「……分かりました」
 白々しくのたまう少女を、清浪は厳しい視線で打ち、少女は諦めたように眼を閉じ、顔を伏せた。すぐに顔は上がり、元の位置へと戻った。その表情は、やはり最初と変わらずあった。
「私は、琉詠鈴と申します。貴方とお話がしたくて、待っておりました」
「……何を」
「人間でない貴方と、お話がしたくて」
「何故、分かった」
 清浪は、人間ではない。
 その本性は、銀の毛皮を持つ狼だった。元から霊力が強く、人の姿を取って耀燐に仕えるようになったが、自分の正体を誰かに言ったことは決してなかった。そして、相手は今始めて顔を合わせた人間の少女。何故気付かれたのだろうか。変化は完璧だったはずだ。
 詠鈴は、ゆっくりと首を横に振った。
「分かるんです、元から。雰囲気というか、気配で」
 そして、図々しくもこんな要求をしてきた。
「ここは寒いですね。場所もなんですから、良かったら貴方の部屋の中でお話しませんか?」