紅耀燐 白風花 黒冥螺  
   

五界姫譚 紅耀燐

1「私は、世界を見てみたいのよ」

3

 清浪は耀燐の従者であるが、彼はどうにも妙なところで『働かねば』という意識が働くらしい。自分の仕事がない時には、言われていなくてもためになる何かをやろうとしてくれる。大概はありがたいことなのだが、時にいきすぎてしまい、今日のようなことが起こる。耀燐は少々それを言い聞かせ、晋延と共に朝食をいただくことにした。
「時に、耀燐殿。どうして貴女は旅をなさっているのですか? 理由をお聞かせ願えますかな」
「それは、どういう意図があってのことですの?」
 そう訊き返してから、しまった、と耀燐は内心焦った。聞きようによっては、これは挑発とも取りえる発言だ。晋延は怒りはしないだろうか。
 晋延は、鷹揚に笑っただけだった。
「いえ、単なる好奇心でございますよ」
「すみません」
 一言、耀燐は謝る。そうして、質問へ答える。
「見たいものが、あったんです」
「ほう? 見たいもの」
「ええ」
 面白がって身を乗り出す晋延に対し、耀燐は少し冷めたふうに視線を逸らした。しかし、すぐに晋延の眼を見つめなおす。この人なら笑わず聞いてくれるだろう、という確信があった。
「世界が見たかったんです」
「ほう? ――世界?」
「はい。……我が家が、道は男が継ぎ、家は女が継ぐという思想を持っていることはご存知ですよね?」
「ああ、もちろんですよ。知らない者はおらぬでしょう」
「だからなんです」
 冷めたはずの熱が、急激に戻ってきてさらに温度を上げているのを、耀燐は感じた。それを必死で抑えつつ、言葉を探していく。どう言ったら良いだろう。晋延殿ならばないとは思うけれど、誤解は招きたくない。どう言ったら伝わるだろう。
「……女は、ずっと家の中で育てられます。外になんて、滅多に出させてもらえません。だから、外が見たかったんです。色んな場所が、見たくなったんです」
 結局、上手く伝えることはできなかった。しかし、晋延は頷いて、それは良いことだと言った。
「家を継ぐにも、その家の中だけにいては一つの考えに凝り固まってしまうでしょう。それではいけませんからね。色々なものを見て、何が良いことか、何が悪いことか、しっかりと見極めなくてはいけません。こんなことわざを知っていますか?」
「?」
「『可愛い子には旅をさせよ』。子供をしっかりと育てるには、多少の危険でも体験させなければ、守られっぱなしの弱い大人になってしまう。子を育てる親への教訓です。近頃の紅家は、それが出来ていないのではないかと思っていたから、安心したよ」
「ご心配をおかけして、すみません」
「いや、自分から巣立とうとする小鳥もいるんだなぁ。感心したよ。耀燐殿なら、きっと良い家長になるでしょう」
「どうもありがとうございます。お言葉、光栄に思います」
 やはり、この人に話して良かった――耀燐は幸せと満足感を覚えながら朝食を済ませた。その後は町を歩いてみると晋延に継げ、清浪を連れて晋延邸を出発した。

 

「まずはどこへ行く?」
 清浪が尋ねる。彼のぶっきらぼうな言葉遣いには気を止めず、そうね、と耀燐は呟いた。青い空を見上げ、清浪の顔に視線を移し、考えること数秒。
「また港に行きましょう。昨日は曇っていたけど、今日は晴れてるからきっと違う顔が見れるわ」
「分かった」
 清浪も異論は唱えない。耀燐は足を速めた。この程度の速度ならば、清浪は悠々と付いてこれるだろう。晴天の海が見たくて、耀燐は自然足早になる。挙句、清浪には危ない落ち着けと諌(いさ)められてしまった。
 それでも最後は駆け足になる。目の前の光景を見て、耀燐は歓声を上げた。
 雲一つない青い空から、太陽が照らす海の色は紺碧。白い鴎(かもめ)が飛び交う姿は青に映え、港では数々の船が帆を広げて出港を待っている。煌めく水面下では水草が揺らめき、その隙間をかいくぐる魚の姿が垣間見えた。
「清浪! 見て! 魚がいる!」
「……ああ」
「なんだあ、お嬢ちゃん、ここらのじゃねえな」
 ふいにかけられた声に、耀燐は防波堤から振り向いた。そこにいたのは、汚れたつなぎと色褪せた麦藁帽子の、漁師と思しき初老の男性だった。
「はい、旅をしています」
「そっかぁ、若いのになぁ。そっちのは兄ちゃんか?」
「いいえ、連れです」
 従者というものは位の高い者しか持たず、庶民にとっては馴染みのないものであることは、耀燐も知識として知っていた。そのため、より馴染みのある“連れ”という単語を使ってみたところ、男性はすぐに納得したようだった。
「そうかそうか。海、初めてかいな?」
「昨日も来たのですけれど、生憎曇り空でしたので」
「だぁなー。楽しんでおくれや」
「はい」
 男性は漁に出るところだったらしく、耀燐が笑いかけるとすぐに船へと向かっていった。それを見送ると、耀燐は再び海面を見やった。波打つたびに色を刻々と変え、それが耀燐には奇妙で面白く思えた。しばらく眺めてみる。飽きることはなかった。