1「私は、世界を見てみたいのよ」
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その夜、晋延邸では歓迎の宴が催された。受けるは、紅家の子女耀燐。少女は、髪と瞳の赤の良く映える緑の衣装を纏い、広間に姿を現した。その後ろには、侍従である清浪が付き従い、彼らを晋延が迎えた。
「改めまして、ようこそ、耀燐殿、清浪殿」
「ここまで用意してくださるお心に、感謝します」
「そう畏(かしこ)まらずに、良く羽を伸ばして下さい」
晋延はそう耀燐を気遣うが、決して少女に媚びているわけではない。穏やかな言葉の中にも貫禄があり、思わずさすがと讃えたくなるような雰囲気をかもし出している。耀燐は素早く晋延を観察し、そして軽く溜め息をついた。
勧められた席に腰を下ろし、ごくごく薄い果実酒を空けて乾杯する。用意された食事を、耀燐は全種類口にし、晋延へその感想を述べる。少女の絶賛を晋延は厨女(くりやめ)に聞かせ、厨女は恐縮して頭を下げ続ける。
一時間も経つと、宴はお開きとなった。
あてがわれた部屋へと戻った耀燐は、髪を解いてから寝台へと倒れ込んだ。明かりをつけない室内は、廊下からの光が入ってくるとはいえ薄暗く、うっすらと天井が確認できる程度の明るさだった。視界の利かない中、耀燐は寝台の上で仰向けに静止していた。
耀燐の生家である紅家は、刀鍛冶の道を極めた一族だ。ただし、その道を継げるのは男子で、女子は家を継ぐ。男子は幼い頃から鍛冶仕事を身に着けさせられ、女子は当主にふさわしい男子を選ぶことを求められる。紅の“家”の跡継ぎは、耀燐の役目だった。
厳格な父。女は外へ出る必要などないという考えから、耀燐は家の中ばかりで育てられた。出ても、紅家の広い庭まで。長方形をした敷地は、まるで箱庭のような圧迫感を耀燐に与えていた。
ただ、面白いと言えることもあった。庭に、美しい銀の毛並みの狼が紛れ込んだことがあった。狼は手負いで、確かその時は父が殺そうとしていたっけ。耀燐が止めたことにより狼は一命を取り留めたが、その後どうなったかは知らなかった。
ともかく、耀燐は十三になったばかりの二月、家を出ることを決意したのだった。
何とかこうにか父を説得し、母の心配を振り払い、清浪だけを連れて旅に出た。一人だけいる兄は、見送りの際弓矢を一式贈ってくれた。
紅家は、南の地域に家を構えていた。耀燐はまず北へ向かった。すぐに、黄晋延による迎え入れが決定していた。こうして、耀燐は黄晋延宅へ無事に到着した。
室内では充分すぎるほど動いていたが、外に出て歩くことはほとんどなかったためか、足が疲れて重かった。上半身を起こして足をぱたぱたと叩く。湯浴みの用意は出来ているそうだ。今日は早く寝てゆっくり休もうと、耀燐は決めた。
替えの服は部屋に数種類あり、好きなものを選べるようになっていた。耀燐は動きやすそうなものを選び、それを手に浴場へ向かった。手早く汗と汚れを洗い流し、水滴を拭って服に袖を通し、廊下を歩いていた使用人に一言声をかけ、清浪の部屋に顔を出し、自分の部屋の戸締りをし、少女は眠りについた。
翌朝、耀燐は夜明け直前に目覚めた。
というのも習慣で、一日は朝日を浴びて始まるというのが耀燐の日課だった。本日は晴天。太陽の光は、勢い良く夜空を切り裂いた。耀燐は枕元に置いておいた水差しから水を飲むと、伸びをし、縮み、軽く運動をした。しわの付いた服は取り替える。髪は昨日と同様、うなじでくくる。ここまで来る間使うことのなかった弓矢の調子を見て、しかし荷物全てを残したまま、耀燐は部屋を出た。
隣の部屋が、清浪のしている部屋だった。耀燐は軽くノックしてから、返事を待たずにその扉を開けた。
しかし中には、誰もいなかった。慌てることなく、耀燐は部屋に入り、後ろ手に扉を閉めた。カーテンは開け放たれ、寝台も整えられてはいるが人が寝ていた温もりが残っていた。それだけを確認し、耀燐は再び廊下に立った。
あくまで駆け足にはならないよう、それでも急ぎ足で耀燐は広間へと向かった。途中、一人の使用人とすれ違い、短く挨拶を交わした。着いた広間では朝食の準備がなされており、晋延の姿はなかった。
「清浪!」
忙しく動き回る女達、その中に混じった異色の男へと耀燐は声をかけた。彼・清浪は振り向くと、ああ、と呟いた。
「ああ、じゃないわよ。どうしてそんなことをしているの?」
清浪は、女達の手伝いをしていた。美しく食事の盛り付けられた皿を、素早くかつ丁寧に食卓へ並べていく。さらに調味料の置き場所を調整したり、花瓶に挿された花の角度を変えてみたり、決して邪魔にはなっていないのだが、女達は明らかに縮こまっていた。
耳をすませてみれば、広間の隅では数人が集まり、晋延様に知られたらどうしましょう、何とか仕度が整う前に晋延様がいらっしゃらないようにしなければ、などと策を巡らせていた。耀燐は一つ溜め息をつくと、
「清浪。手伝うのは良いけれど、彼女達の立場も考えてあげなさい? 貴方、これでもお客様なんだからね。仕事を取られた上に客に手伝わせたと判明したとしたら、どうなるかしら」
「…………」
清浪は無言だったが、反論もせずに身を引いた。女達の間にも、明らかにほっとした空気が流れた。従者指導が行き渡っていなかったわね、と呟いた耀燐は天井を仰ぎ、ひとまず清浪を広間から連れ出した。