そう畏まらず如何なることでも尋ねよ、妾はお主らよりも長い間地上を見ている、と神の臣属は言った。
しばし顔を見合わせた後、空遙が尋ねた。
「名は何というの?」
送る問いへの答えは、質問者の二人にしてみれば不可思議な発音に満ちていて、到底行使することはできそうになかった。
「人の世においては、久麗羽と名乗っておる」
必死に復唱しようとしている双子に苦笑し、神の臣属はそう名乗った。
「きゅう、れいう?」
「久し麗し羽と書く。文字は分かるかえ?」
中央都市とは程遠い山間の里では、半分以上の者が文字の存在は知りながら使うことはできないままに生涯を終える。また、二人の幼さ故の麗羽の配慮からきた問いだった。
しかしその里でも、経済的に恵まれた家の出である、二人頷き、空音が振り返り地に膝を付け、指を汚して字を記した。その間に、誇らしげな空遙が言う。
「学びは喜びだよ。空音は文字を書くの、得意だよね」
「しかし、空遙は算学が得意だ」
こちらは少々不服げな空音。手に付いた土を払いながら、唇を尖らせる。
「空遙は私にできないことをしてのける。私よりもずっと早く数字を導く」
「空音だって、僕にできないことができたりするでしょう? 文字は空音のほうが余程綺麗だよ」
「お主等はクウヨウ、クウインというのか」
「空遙。空の遥かと書く」
「空音。空の音と書く」
「ふむ、良い名だ」
互いに名乗り合うと、麗羽は大磐から身を滑らせ、地上に降り立った。白い髪が薄闇の中、いやに明るく棚引き踊った。
それに見蕩れながら、空音はその身体の線を眼で辿った。やはり優美だ。麗羽の生まれなど知らない。主だという冥王に作られたのではないとしても、これが神の創作物かと思われるような、性的な色のない美しさを感じた。
空音が切り出した。
「つまり私は、冥王に仕えるために〈贄〉として選ばれたのか?」
「左様。しかし村の者は、〈贄〉の真意など知らぬだろうな……魔物を恐れておったろう、それが証」
「どうして村の者は、真実を知らない?」
「かつての村長は、知っておっただろうな。こちらから隠し立てはしておらぬ。いずれかの代で、伝えそびれたのであろう」
心底残念そうに、麗羽は言った。空音は申し訳なく感じ、謝罪を口にした。お主に責任はない、気にするなと麗羽は否定した。
次に尋ねたのは空遙だった。
「冥府とはどんなところ?」
「お主の想像では、如何か?」
「暗くて寒いところ。冥王は恐ろしい?」
「死への印象がそれのようだが、冥界は暗くも寒くもない。寒さ暑さやらを感じるのは肉体だからな、冥界の魂の半分以上は肉体を持たぬ、そんなところに寒さも暑さもあっても仕方があるまい、元からないのだよ」
「けれど、〈贄〉は肉体を持って冥府へ降るんだよね?」
「そもそも、過度の寒さ、暑さは苦しみであろう。冥界は苦しみを与える場所ではない。魂だけの者は温度を感じぬし、〈贄〉として降った者には苦しみを与える理由がない。気温的な意味では実に快適であろうな。
また、閉ざされているから暗いは暗いだろうが、あらゆるところで明かりが灯されている、よって案じることはないぞ」
「冥王様は?」
「お優しい方だ。冥界は魂の休む地。死した者に安らぎを与え、次の生へ繋がるために備える時を与えて下さる。恐ろしくなどないぞ、妾は尊敬しておる。世界のどの存在よりもお優しい方だ」
「えっと、なら死者は全て冥界へ行くの?」
「最終的にはな。お主が尋ねたいのは、死者は誰も苦しまないのか、ということであろう?」
「そう。そこはどうなの?」
「魂が罰を与えられる場所はある。冥界はそれではない。例えば地獄、煉獄。閻魔に裁かれ罰を受けるべきと下された者は、獄に繋がれ苦しみを味わうこととなる。……滅多にそのような者はおらぬが、な」
「知らなかった……」
腹いっぱいに物を食べた時のように、いささか苦しげながら満ち足りた表情で、空遙が溜め息を吐いた。
「さて、如何にしようか」
頃合を見計らっていたのか、麗羽は細い腕を胸の前で組んだ。
「〈贄〉を一人、冥府へ送らねばならぬ。どちらかを選ばねばならぬ。さて、如何にしようか」
「どうしても、二人は駄目なの?」
「無理だな。お前達が思う以上に、冥府は忙しいものだ。新参者の教育に、そうそう人は割けぬのだよ。せいぜい一度に一人送るので精一杯」
「じゃあ」
二人は引き裂かれるのか――と。
不安げに問いたげな二つの顔を見下ろし、麗羽は静かに首を横に振った。一つの案を提示する。
「冥府へ降らなかった方には、いつでも冥府を訪れる権利を与えよう。家に戻るわけにもいくまい、妾と共に世界を巡ろう。如何か」
決して悪い提案ではなかった。むしろ二人共にとって魅力的な提案である。かつてより広い世界に興味があった空音と、冥府に興味を持った空遙。しかし〈贄〉として相応しいのは女童の空音――。
「何故空音とすぐに決めないの?」
「見たところ、空遙、お主のほうが冥府を見てみたい様子ではないか。男ではあるが、適応性は充分ありそうだ」
出会ってまだ何刻も過ごしていないが、二人の性癖は見通している様子の麗羽だった。
「冥王にお尋ねしては?」
「何か異常な事態が起きた時の対応は、妾に一任されておるのだよ、冥王はこのことに関与せぬ」
相当悩んでいるらしく、やけに人間臭く麗羽は唸り溜め息をつき、それから瞳を閉じ、静謐な宣告を紡いだ。
「お主ら自身でお決め」
言われ、空遙と空音は互いを見交わした。
言葉は交わさなかった。
視線を交わすそれのみ。
す、と麗羽に背筋を正す。
「空遙が冥王にお仕えします」
「空音は麗羽と共に世界へと」
それを聞くと、麗羽は頷いた。下げていた瞼を上げると、透き通るような真紅の瞳が二人を射抜いた。
「さて、……お主らに、冥王の真名を授けよう」
「冥王の真名……?」
「左様」
知識欲の豊富な双子は、途端二対の黒耀石を煌めかせ麗羽を見上げた。年齢相応の分かりやすい反応に、麗羽は温かな目元で苦笑しながら、如何なる業を使ったのだろうか、一瞬で磐上に上がると、両腕を伸ばして二人を誘った。従った二人を引き上げると、青白い指を黒髪に絡めて頭を引き寄せ、声を落として囁く。
「冥王というのは一種、通称なのだよ。死した者が向かう場所が冥界であると、そういう認識があるためだな」
「違うのか?」
「間違ってはいない。しかし俗に冥界というものは、ただ死者が向かうだけの場所ではない。死した者の魂が、次の生へ向けて一時留まる、そのための次元なのだよ」
「そこを支配するのが、冥王」
「左様。冥王は原初から冥王として存在したわけではない。生と死を扱う神。それが人の世では俗に、死者の国冥界を治める王であるという説で通っているだけの話。
妾のような者等を従えているという点で、王というのはあながち間違ってもおらぬがな」
ふふふ、と麗羽は含み笑った。
そして小さな二つの耳朶に唇を寄せ、音無く名を紡いだ。
曰く、命王と。