黎は空を見上げていた。
数分前に、仲間達の側を離れた。外へ出ていた
空は、厚みのある灰色の雨雲で一面覆われていた。意味もなくそれをじっと眺めているうちに、水滴が衣服のいたるところに浸透し、身体に張り付いて不快感を黎に与えるようになる。それでも、黎は小屋へ戻ろうとはしなかった。
「……黎」
静かな足音が、黎を呼んだ。振り向いた先には、黎と同様雨に濡れ細った翫の姿があった。返事はしない。必要がないからだ。視線に問い返すと、翫は微笑んだ。胸の前で組まれたむき出しの腕が、寒々しく見えた。
「影が言うには、もうすぐ雨やむって。そうしたら出発するよ。……中入らない?」
「……ああ」
上の空で答えると、翫はふふっと息で笑ったようだった。微かな音は、雨音に掻き消されて黎の耳まで届かなかった。
「じゃあ、動こうよ」
「ああ……」
再び雨空を振り仰ぎ、黎は息を吐き出した。冷え切った身体でも、そこから吐き出された息は随分と温かかったらしい、冷たい空気にそれは白く立ち上り、消えた。その間、翫は何も言わずに黎に背を向ける。歩き去るその姿を眼で追い、そのまま視線を下へ下げると、足元には見事な水溜りが出来上がっていた。
(いつの間に)
やる気なさ気な男の顔が、モノクロ気味に映し出される。そうすると暗く見える、実際は夜明けを迎える頃の森の色をしている瞳が、無気力に見返してきた。しばらくそれを見つめて、飽きたわけでも苛立ったわけでもなく、ただ何となく足を無造作に振って写し身を掻き消すと、黎は翫を追った。
こちらが動く気配を、翫は正確に感知したらしい。すぐに足を止めると、黎が追いつくまで無言で待つ。並んで歩き出してから、翫は黎へ向けて言った。
「皆心配してたよ」
「……そうか」
「とりあえずそれだけは伝えとく。……あんまり無理しないように。君はすぐ溜め込んじゃうから……って、これは冥螺の言葉なんだけども、ね。何かあるのなら、すぐ言いなさい」
「了解……」
まるで母親のような翫の口ぶりに、黎はぼんやりと呟くに留まった。冥螺との生活が始まってから、いまいち自分の意思がはっきりしないような気がしてならない。そして、それをしっかり持とうとすべき状況でもなくなったせいなのか、どうしても気を抜いてしまう。それでも身体は緊張している。脳の働きだけが中空でぶらぶらと揺れているような、靄がかかったような感覚。常時緊張を強いられていた以前が、少々信じられなくなってきた。
「黎」
翫の瞳が、真っ直ぐに黎に向けられた。常に中立の立場を保ちながら冷静に優しく仲間を見守る、湖面のような瞳。色の薄い唇から吐き出される息が、白く散る。決して凍えているわけではないのだがそのように見えて、ああやっぱり寒々しいな、と認識を改めた。だからといって自分の纏う外套を、彼の肩にかけてやるような紳士さも思考の発展もなかったが。
たとえそうしなかったところで、体調には何の支障もきたさないのだから。