紅耀燐 白風花 黒冥螺  
   

五界姫譚 黒冥螺

「っはぁ、はぁ、はぁ……」
 あられもなく息を荒げて、私は掲げていた剣を下ろした。上がる呼吸を落ち着けてから、辺りを見回す。そう、ここは、まるで血の海。
 元々敷かれていたのも高価な赤の絨毯だった。私の右手に連なる刺突剣、先端から滴る鮮やかな血液が、やがてその上に黒い模様を描く。その本来の源である肉体が、いくつも部屋中に横たわって絶えたはずの命を流し続けていた。
 ああ、良く見れば赤い服を着た奴もある。余計に室内を赤く染め上げるなんて、何だか妙におかしくて私は乾いた笑いを零した。拍子に力が抜け、右手から刺突剣までが零れ落ちた。石の床にカランと音を鳴らし、剣は私の元を離れた。
 さて、どうしましょう。私はすべきことを失って立ち尽くした。気に食わない王族連中は殺してやった。今日、この国は変わる。それは確実。起こりうるべき事ではない、起こす事なのだから、私達が。
 そう、私達が。
「真湊……」
 私達。私と彼。その彼の名前を唇に乗せると、胸をきつく締め付けられる幻覚に襲われ、苦しさに目を閉じた。ドレスの胸元を掻き抱き、それを抑えようと強く念じる。足の力が抜けて、私はみっともなく床にへたり込んでしまった。
 湊の字を持つ彼は、まさに私達を新たな世界へ送り出す港のような存在だったのに。
『決して頂点に立つようなことはしないさ。新たな国を守ることはしても、誰かに何かを命じたりすることは、俺はしたくない。民の力で動く……そんな国が、俺は欲しいんだ』
 そう語る時の彼の瞳は、澄み渡った海のように優しく穏やかで、その奥に熱情を孕んで潤み、どうしようもなく惹かれずにいられなかった。
 彼にならばどこへでも付いてゆける。そう信じられたのは初めてのことだった。同時に、彼の隣に立てる女は私しかいないとも思えた。根拠はないけれど確信できる、絶対的な何かがあった。
 その彼はもう。
 そう聞いた。革命軍の一隊を率いて、私とは別の場所から城を攻めた彼は、討ち死にしたのだと。
 伝えてきたのは彼の軍の一人で、それを聞いた私の反応はいたって単純だった。

 殺そう。

 そして私は城の一室で身を潜めて怯える王、王妃、その側近達を手にかけた。当初は、生かして後に市民の声を聞いて処断することになっていた。そんな彼らは既に拘束されていて、予定通りの部屋に閉じ込められ、丸腰でもあった。
 けれど私は我慢がならなかったのだ。

 彼が死んで彼らが生きている。どういうこと?

 まず女を殺した。王妃だ。それから側近。位の低いバッジを着けた奴から順に。さんざん恐怖を見せ付けておいてから、最後に憎き王の首を掻き切った。それから子供が別室にいることを思い出したが、彼らに罪はないのだと考えれば体が自然に動きを止めた。
 あの男が、入口から覗き込んでいる。私に彼の死を伝えた、あの男だ。彼には何の感情も抱いていない。床に膝を付いたままそちらを見ることもなくいると、視界の端で彼が入室したのが分かった。
「麗雅(れいあ)さん……」
「呼ぶな」
 今私の名を呼んで良いのは、彼だけ――
 ああ、もう彼はいないのだった。
 思い出して私は自嘲った。いつまで彼に執着し続けるのだろう。いつまで彼に背負わせ続けるのだろう。いつまで……。

 ああ、もう彼はいない。
 いないのだ。

「真湊……」
 彼の名を唇に乗せると、愛しさと切なさがこみ上げてきて、私は壊れた人形のように繰り返した。最早呼ぶことのできない彼の笑顔に向かって、未だすがりつくように意味もなく、懸命に。
 何が彼を動かしたのか、いつの間にかあの男は去り、私は一人部屋に残されていた。かつて人であった肉体はいくつも転がっているのに、その内で今も生きて動く心臓を持つのは私しかいない。死体の中で一人息を潜める女。煌びやかなドレスを血色に汚して、愛する男も失って、何て惨めだろう。
 けれど笑いがこみ上げることはない。涙も溢れ出ることもない。感情を捨て去ったように、それでもただ吐息ばかりが荒く浅い呼吸を繰り返して、その狭間に彼の名を呼んで。音を忘れ時を忘れ、ただ唇の振動に身を委ねて。
 いつしか目の前に漆黒の髪に暗紫の瞳を持つ少女が現れた時、私はさして動揺しなかった。
「我と共に来ぬか」
 そう問われた瞬間も、何も思わなかった。それからその言葉を反芻して、ああどうするか決めなくてはいけないのね、と漠然と思った。その時私を支配していたのは彼のことだけだった。“彼”と重なる、彼女の後ろに立つ彼。失礼だとは思いながらも、私はまじまじと見つめずにいられなかった。
 釣り上がった青い瞳、うなじでちょいと括られた黒い髪、口調から声音まで彼とそっくりで。
「――行くわ」
 私には、もう帰る場所がない。
 ならばもう前へ進むしかない。
 どこかへ行く、それしかない。
「行くわ。貴女と行く――黒冥螺」
「左様か。――ならば来るが良い、反」
「反」
 それが、これからの私の名前。反逆者の私に相応しい、私の呼び名。
「気に入ったわ」
「ならば良い」
 笑って見せると、冥螺も仄かに笑んだ。

 でもできれば。
 死に顔など彼に見せたくはなかった。