脳裏を廻るのは、ただ謝罪ばかりだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
顔も知らない妹へ。
僕は謝ることしか。
「……嬉しくないだろうね、謝られても」
だってこれは、僕自身が許しを乞いたいだけだから。
「大丈夫……もうすぐ、僕は死ぬよ」
そうしたら君は、僕の謝罪など聞かずにすむようになるから――。
「妹に、会おうとは思わぬのか?」
幼い少女の声に、僕は勢い良く振り返った。
「妹を、知っているの?」
「お主よりは、ずっと、の」
古風な、まるで世界のあらゆることを見知っているかのような落ち着いた口調の彼女は、黒い長髪と暗い瞳孔を持って僕の前に現れた。僕はこの時始めて彼女の存在を知った。そしてこの瞬間はまだ、今後も彼女と長い時を過ごすなど、考えもしなかった。
「……ううん、僕は死ぬから」
だから何も訊かないし、何も聞かない。聞いたところで何も残らないから。そう言葉には出さず暗に仄めかしたつもりだったけれど、彼女こそ聞く耳を持たないようだった。さっさと話を進めてしまう。
「我と共に来ぬか?」
「……死ぬから」
「死んで良い。その後我と共に来ぬかと問うておる」
この時点では、彼女が言わんとしていることはさっぱり伝わってこなかった。彼女の言っていることが『生き還って新たな人生を歩まないか』という誘いだなんて、誰が想像できるだろう? 少なくとも僕は理解できなかった。想像さえ及ばなかった。
いや――正確には、生き還りですらないのだが。
「何が、言いたいのですか」
「我がお主の存在を許そう」
すとん、と。
何かが胸の中に落ちてどこかの穴に収まった、そんな気がした。自分でも何が起こったのか分からなかった。ただ、それが自分が望んでいたことだったのだと。
「……僕は、居て、良いの?」
「良い」
彼女の答えは簡潔。だからこそまっすぐに、僕の心に届く。
熱いものが肉体の奥から湧き上がり流れ出るような心持ちに、落ち着かなげにそれでも身を浸していると、顎に冷たい何かを感じて、気付けば僕は眼孔から雫を流していた。さらなる狼狽。僕が最後に泣いたのはいつだっただろう。少なくともここ数年は、泣くということをすっかり忘れていたような気がする。
「でも僕は」
依然存在する躊躇い。それは、切り捨てたい過去。今も尚僕を縛る記憶の、三つのうち一つ。
喉の奥から搾り出した真実。
「僕は人を殺してる」
「お主の過去など構わぬ」
あっさり、そう彼女は僕の迷いを断ち切ってしまった。
「要は我に従う意思があるかどうかよ。それ以外は求めぬ」
僕が僕自身に要求することと、彼女が僕に要求することの量のあまりの差に、呆然とまでしてしまう。この時僕は何も言うことができず、ただ彼女の言葉を聞いていた。
「ふむ、その若さで人を殺したか。だからといってどうだというのだ? 冥螺は其奴が人殺しか否かなどどうでも良い。いやむしろ――我の傍に在ることを望むならば、一片でも死に触れたことのあるものが良いやもしれぬな」
彼女の顔が、僕の顔に近付いた。小さな唇が動くのを、僕は間近で見る。
「死は美しいぞ」
体が震えた。
「同様にまた生も美しい。生物が生に惹かれるのならばまた死に惹かれるとしても何ら不思議はなかろう? いやむしろ道理。生物は命に惹かれておるのだ。その方向性が生であれ死であれ、同様に美しいものに惹かれるのは決して間違ってはおらぬ」
彼女の瞳は深かった。暗く深く、僕に測り知ることはできないほど深かった。
「お主は死に惹かれたのであろう?」
「僕、は……」
どう答えたら良いのか分からなかった。そうなのだろうか? そうでないのだろうか? 自分が分からない僕には彼女の問いの答えも分からなかった。彼女は答えを知っていながら僕に問いかけているように思えた。いや、きっとそうだろう。分かったのは、それだけだった。
それは質問ではなく確認。
「あなたは、そうなのですか?」
「我、か?」
虚を衝かれたように、彼女は幼い表情を見せた。それに僕は戸惑う。見た目相応の反応もするんだな、と僕は思っていた。彼女の見かけと実際に生きてきた年月の差異を、この時の僕はまだ知らなかったけれど、僕は確実に、見たままの幼い少女としてではなく、成熟した大人の女として、彼女と接していた。
「そうかもしれぬな。そしてその行為を認めておる。だからこそそんな者等が我が元に集うのだろうよ」
「集う?」
「左様」
厳めしい表情で彼女は頷いた。
「正確には我が募っておるのよ。意志のある者を。前歴は問わぬ。お主はその中の一人として選ばれたのだよ」
「どうして……僕を?」
「それは我にも分からぬ。未知なる力が働いているのやもしれぬの」
それは誤魔化しではなく本音。
その深い瞳を見れば分かった。僕に測り知ることのできない奥から湧き出した、真摯な答えであることが分かった。
――この人と共に歩むのも良いかもしれない――
ふと思った。理由も根拠もない。ただふっと湧き上がるように思った。言い方を変えれば、彼女のことが気に入ったのだろう。彼女に付いて行く理由としては、それで充分のようにも思われた。だから僕は、それ以上考えることをしなかった。
「僕、逝くから」
それだけ言った。
「それから、行くよ」
ただ彼女は頷いた。満足げに。
「そうすれば良い」
連れて行くのはこの肉体と、この記憶と、手の中にある冷たい拳銃。
握り締めたそれを僕は自らの左胸に当て、躊躇うことなく引き金を引いた。