彼女は、もう居ない。
彼女は、もう居ない。
彼女は――。
自分の発する囁き声で、俺は目を覚ました。
誰を呼んでいたのかは分かりきったことだ。愛しい彼女、失われてしまった彼女の名。
圧制に喘いだ民衆は今宵、解き放たれてどこか浮き足立ち、また或いは誰かが先行きの不安を語り、誰かは未来の希望を仰ぎ、誰かは先王のかつての善政を懐かしみ、誰かは愚王を討った英雄を語り、酔って喧しく怒鳴り散らす男ばかりの、僅かな色もない酒場で、俺は一人酒を呷る。
そう、革命は成功した。生き残った仲間達は、おそらくどこかで祝宴を挙げ、馬鹿騒ぎでもしていることだろう。だが、仮にも頭として一隊を率いた俺が居ないというのに、誰一人として探しにも来ないというのもおかしな話だ、と俺は一人自嘲った。しかしそれは有り難いことだった。こんな気分で祝杯など挙げられるわけがない。
俺は彼女達を失ったのだ。
彼女だけでなく、彼女までも。
愛らしい彼女。
誰よりも儚く、誰よりも愛らしかった彼女。
兄妹であり、唯一の肉親であった彼女。
彼女は、もう居ない。
病に命を奪われてしまった。
骨の欠片さえ戻らないままに。
美しい彼女。
誰よりも勇ましく、誰よりも美しかった彼女。
戦友であり、唯一の恋人であった彼女。
彼女は、もう居ない。
自ら命を絶ってしまった。
凄まじい功績を残して。
しかし俺に残された、戻れぬ過去、叶わぬ未来となってしまった彼女との日々は、それ故にただただ俺を苦しめるばかりだった。
自由になったこの国で過ごす自由な時を、どれだけ夢見ただろう、どれだけ望んだだろう。そこには彼女達がいて、もう一人気骨のある男がいるかもしれない、そして皆が温かに笑っている。それなしには俺の幸福もまたなしえないはずだった。
しかしその望んだ光景は、一度として実現することはない。
既に彼女達が失われたから。
酒を呷る。
革命軍第一隊の先頭を走ったにも関わらず、俺はほとんど無傷で戦いを切り抜けた。堕落しきった国軍は何の防壁にもならず、中にはこちらに降伏し戦力に加わる者すらいたのだから、それだけ王への信頼が崩れていたかはあえて想像する必要もないだろう。
彼女は別の隊を率いていた。その隊も無事に役割を果たしたと連絡が来た時、俺は歓喜した。俺は生きている。彼女も生きている! 胸が高鳴った。俺達は生きているのだ。そして、とうとう新しい国が生まれる!
次々と成功の報せが届く中、俺の隊のある男が近寄ってきた。その表情がどこか不安げで、喜びに湧く空間では場違いだと感想を抱いたのを覚えている。
しかし直後、彼の言葉に俺は崖から転落した心地になった。
「お亡くなりになりました」
彼女が……死んだ?
「馬鹿な」
「御自らの喉を掻き切って……お亡くなりに、なりました」
「っ! どこにいる?」
「いけません隊長っ」
彼に掴み掛かる俺、俺を押し留める彼。理解できない。
「何故止める?」
「きっと、隊長に見られることをお望みになりません! 彼女は……死に顔などあなたに見せたがりません!」
「何故だ!」
何故彼女は死を選んだのか。
何故彼が俺を引き止めるのか。
分からない。分からない、さっぱり分からない。
「気をお鎮め下さい、隊長」
やけに冷静な言葉が俺の火照った耳を打つ。
「私が、丁重に弔いますから。それから、会いに行ってやって下さい」
何を言っているのだろう、この男は。
異常を感じた時には彼は既に身を翻していた。俺は追えなかった。体が動かなかったのだ。心はいやに急いているのに、体は鉛を詰められたように重かった。
それから男はずっと戻ってこなかった。
丁重に弔うと言っていた。それなりに時間もかかるのだろうと、納得していた。
その時点で俺が既に異常だった。自分自身よりも大事にしたいと、心から思っていた女の死を、自分以外の男に任せるなんて時点で、俺が既に非常だった。しかしその時異常だった俺はその異常に気付けずに今冷静を取り戻した俺は気付いていて、ただそれだけで事実は何も変わりはしない。
彼女は、逝ってしまったのだ。
酒を呷る。
ぐるぐる廻る。ぐるぐる巡る。
視界はゆらゆらと、頭蓋はゆらゆらと揺れた。
脳裏に浮かぶもの。
彼女達の声。彼女達の泣き顔。彼女達の笑顔。俺にとって極上の、ただ二つしかない、最高の笑顔。
愛していた女性が二人、この世から失われた。
俺の居場所は、拠り所はもう、ない。
このまま、悲しみに酔って朽ち果ててしまおうか……。
視界が暗転するような感覚。
急激に世界が遠くなる。
誰かが遠くで叫んだ。誰かが遠くで騒ぎ始める。誰かが遠くで呼ぶ。誰かが遠くで、遠くで、遠くでーー
「澪那……」
それは妹の名。
「……」
それは恋人の名。
「…………」
二つの単語だけが呼び覚ます美しい情景も何もなくただただ混沌とした脳内をぐるぐる廻り永遠に続くかと思われた刹那、
「死ぬのか」
淡とした、幼い少女の声を、俺は聞いた。