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「気付いた時は、先生の家にいました。その時、僕は全く何も覚えていませんでした……最低限の生活をする程度は残っていましたけれど、でも、最初は名前すら。だから、今名乗っている“エリル”って、本名じゃないんです。思い出した音を、繋ぎ合わせただけなんです」
 どうりで、あまりない名前だなって思ったわけね。慧璃琉。きっとこれは、当て字。じゃあ、本当の名前はどんなのだったのかしら? 私には全然想像できなかったわ。それはシュンスケも同じみたいで、少し首を傾げていたけれど。
 すぐに気を取り直すと、シュンスケは促した。
「うん、続けて」
「はい。――先生の家で事情を聞くと、僕はイクスノーラムの近くで倒れていたそうです。その時は熱が高くて、とても衰弱していて。経緯は分かりませんが、僕は先生の家に運び込まれ、先生に手厚い看護をされたようです。イクスノーラムの誰にも、僕の素性は分からず、また僕自身も覚えていなかったので、体力回復のためにも先生の家でお世話になることになりました。それが、二月の始め頃のことです。
 先生は魔法師なのだそうです。そこで、僕の記憶喪失についての見解を述べてくれました。――それは人為的なもので、悪意を持ったものによる仕業である、というものでした。場合によると僕は、命を狙われているかもしれません。
 その時少しでも対抗できるように、寮制であり魔法の学べるヴィンターゲシュに入学することにしました」
 そこで一旦口を閉じる。そして、照れたような、諦めたような笑いを浮かべて、エリルは言った。
「突然記憶喪失だなんて言われても、信じられるわけないですよね。良いんです。忘れてください」
「おい、何言ってんだよ!」
 すぐさまシュンスケが、怒ったように叫んで立ち上がったわ。いいえ――完全に、怒ってる。眉をぎゅっと寄せて、口を大きく開けて。テーブルをがっしりと押さえつける手はきつく握りしめられていて、ふるふると震えて。シュンスケは足じゃなくてそのテーブルのほうに全体重をかけていた。
「“信じられるわけない”? 馬鹿だな、じゃあお前は信じてもらえなくて良いのかよ! ――信じてもらいたかったんじゃないのか? だから俺達に、話したんじゃないのかよ!? なあ!」
「…………」
 エリルは、無言。まっすぐシュンスケを見つめて、視線は逸らさず、ゆっくりと言葉を選んだ。
「今まで、――イクスノーラムからヴィンターゲシュまで来る間、色々訊かれました。その時、『記憶喪失なんです』って言うと、皆笑って流して、信じてくれませんでした」
「でも俺は!」
 言葉が切れた途端、シュンスケは叫んで返す。
「信じる! 信じるさ、ああ信じてやるよ! お前がどんだけ否定したって、お前が言ったことを俺は忘れないぞ。ああ、そうとも、信じて忘れない! ここに誓う。求められるのならば、俺は証に血を流しても構わないからな!!」
 熱弁してくれました! ……正直言うと、私も同じ気持ちなのよね。出会ってまだ一日も経ってないけれど、エリルがとても純粋で嘘なんてつけない子ってことは分かる。話だって、多少突拍子がないかもしれないけど、筋は通ってるわ。嘘とは思えない!
「エリル、私も信じるわよ。シュンが言ったとおり! さすがに血を……ってのは怖いから嫌だけど、私はエリルが嘘をつくとは思えないわ。だから信じる」
「嘘をついている眼でもないし」
 少しは落ち着いたみたい、シュンスケが腰を下ろして付け足した。そうよね、話している間、エリルの眼は真剣そのものだったわ。反対に、さっき『忘れてください』って言った時の眼は、何となくだけれど、戸惑いというか、躊躇いがあったし。全然違う雰囲気だったものね。
 私達の言葉を聞いたエリルは、何も言わずに顔を伏せてしまったわ。でもその直前の表情は、驚いていて、少し嬉しそうだった。きっと、エリルは私達の気持ちも分かってくれたと思うわ。だから、あえて返事の請求はしなかった。シュンスケも。
 そこで会話が途切れてしまって、急に静かになった。私はちょっと辺りを見回してみた。食べかけの食事。誰も手をつけようとはしない。そして、ふと思い出した。エリルの語尾! 元に! 元に戻ってた!!
 ちょっとおそるおそる、私は声をかけてみた。
「ねぇ、エリル」
「はい?」
「敬語」
「……っ、あ」
 焦ったように口を押さえるエリル。その仕草に私が思わず吹き出して、エリル、シュンスケにどんどん伝染して、最後は笑い! さっきはあんなに静かだったのに、今は笑いの渦でいっぱいだわ! その空気に便乗して、というか背を押されて、食事も再開しましょ!
「よーっし、さあ、続きを食べるわよ! 冷めちゃう冷めちゃう」
「俺達のは冷めようがないぞ」
「いーのいーの! エリルのがあるから! ねー、エリル?」
「あっ、そ、そうだね。味噌汁とか」
「っていうか、ご飯もよね。湯気が見えないし! お魚もあったかいほうが良いはずよね」
「どうだ、エリル? 温度は」
「……冷たい……」
 その料理と同様、私達の間を冷たい風が一瞬だけ吹き抜けた。
「……あらー……」
「ま、まあ、仕方がないな」
「そうだね」
「食べるしかないわ! っていうか手伝おうか」
「マーユ。太っても知らないぞ」
「あーっ、それ乙女に言う台詞ー?」
「だーから気をつけろってことだよ! ったくなぁ、世話焼かせやがって」
「はーっ、余計なお世話です!」
「お、お二人とも、喧嘩は……」
「あー、エリル、これは喧嘩じゃない!」
「大丈夫! 大丈夫だからお願いだから、泣かないでっ」
「うっ、ひうっ、泣いてませんっ」
「「泣いてるし」」
 こうして、ヴィンターゲシュ生活最初の一日目は過ぎていく。