T

1-6

 私はすぐさまエリルの背をさすってやった。だってエリルったら、呆然と荒い呼吸を繰り返しているじゃない! これで『大丈夫?』って訊かない人がいたら、その人は非情の中の非情よ!!
「エリル、大丈夫? お疲れ様」
「なんか、暴行を加えられたわけでもないのに何故かスケープ・ゴートの如く、だったけど」
 シュンスケも気遣うように訊ねる。エリルはというと、硬い動作でかちかちと縦に頷いて、大丈夫ですと呟いた。しかもかなり掠れた声。これは、そうとう消耗しているに違いないわね。私、改めて確信しちゃう。って、こんなこと確信したって何も良いことないじゃないの!
「とりあえず部屋に戻ろう。担当の人が来るらしいし」
「そうね。……エリル、歩ける?」
「はい」
 歩き出すと、エリルの調子も戻ってきたみたい、変にふらふらしているわけでもないし、呼吸も通常通り、良かった。無事部屋まで辿り着いて、私達は一息ついた。最初に口を開いたのはシュンスケだった。
「にしても驚いたな。あんな先生もいるなんて」
「あんな、って?」
「あ……いや……」
「惚れた?」
 にやりとしながら、意地悪く訊いてみる。実際はそんなわけじゃないっていうのは私が充分承知してるけど、言い惑うシュンスケをからかえるチャンスなんてそうそうないしね。たまには良いじゃない、ってことで。いつも言いくるめられるのは私なんだし。シュンスケも思い知れぇ!
「違、んなわけないだろマユ、馬鹿」
「え? 焦ってる焦ってる」
「だああ違うっつってるってぇの!」
 シュンスケが叫ぶ。私は楽しそうに笑ってやった。言葉は返さない。何故かって言うとね、凄く、物凄く悲しいことなんだけれど、続く言葉が思いつかなかったからなの。語彙力のなさを感じるわ。これを克服しなくちゃ、シュンスケをやっつけることはできないみたい。
「あんな、っていうのは。ああいう趣味、ってこと」
「あんなとかああいうとかじゃ分からないわよ! はっきりしなさい」
「あー、だから……」
 ちらり、とシュンスケはエリルを見やり、
「幼女趣味、というか――幼、じゃないけど――可愛いの大好きー、みたいな……」
 ははぁ。何となく、シュンスケが言いたいことが分かった。シュンスケが言いよどむのも分かるわ。どう表現したら良いのか、私でも分からないもの。しかも、被害にあった当人がここにいるんだし。
「幼どころか女も違うじゃない。シュン、結構動揺してる?」
「ああ。ああいう“先生”もいるんだな、と」
 たぶんシュンスケは、先生というものは厳格で、何事においても正しくて……そういうイメージを持っていたんだと思う。それが壊されちゃって、だからこれだけ動揺してるんだわ。私は、そう勝手に理由付けをした。たぶん合ってるし。これ以上同じ話題を続けているわけにもいかないから、私はなんとか方向を変えようと他の話題を探してみた。
「それは良いけど。来ないわねー、担当の人」
「全くだ。なあ? エリル」
「え、あ、はい。来ないですね」
 自分からはなかなか話に入ってこようとしないエリル。シュンスケが半強制的に引きずりこみ、私が繋げる。
「っていうかエリル、敬語やめてよっ、なんかなんかなんか」
「聞けエリル、こいつ、気持ち悪いって言いたいんだぜ」
「ちょーっ! 誤解を招く言い方しないでってば!」
「はぁ……」
「まあ要するに、敬語使われるとなんかむずがゆいっていうか、まあ、とにかく普通に、ふっつーに、話してほしいなぁ、みたいな」
「というわけ。俺達ルームメイトだろう? もっとさ、こう、仲良くな」
「別に互いに排除しようとしてるわけでもないんだし。ね?」
「あ、はい、ええと」
 私達の絶妙なコンビネーションでエリルを頷かせると、その効果を早速実践してみることにした。うーん、たとえば、どんな話だったら相槌以外の言葉を聞けるかしら。
 と考えていたら、シュンスケに先を越されてしまった。
「エリルはどの教科が楽しみ?」
「あ、はい、えっと」
 と考えるエリル。ちょっと! 効果がほとんど出てない気がするんだけど! 内心の葛藤など知らぬ顔で、エリルは続けた。
「妖精さんとかが出てくる授業が良いなぁ、とか思ってます」
 がくっ! 『ます』! 『ます』!! 全然、完全に効果が出てないわ!!
「エリル――!」
「はっ、はいっ」
「敬語はなし!」
「はいっ! ごめんなさい!」
 私の一喝に、エリルが驚いて身を逸らす。私が落ち着いたのを見て、シュンスケは自分の意見を言った。人に求めたものは自分からも差し出す、みたいなのがシュンスケのモットーだから。
「俺は、実はというと何でも良いんだけど」
「とか言いつつ、熱烈にここに来たがってたのよねー」
「まあな。面白そうじゃん?」
「…………。あ、そうですね、じゃなくて、そうだね」
「私は薬関係かなー。あ、もちろん危ないのじゃなくてよ。薬草とか混ぜて何ができるのかしら、とかね」
「こいつ、もうそっち関係の本読んでんだぜ」
「えっ、それは凄いで……凄いね」
「マユ、見せてやれば? あの本」
「えーっ、持ってくるの私が?」
「そうだよ。なあエリル、見たいだろ?」
「ええ、見たいで、……とても見てみたいな」
「おーっしゃ決定!」
「えぇぇ〜?」
 ガッツポーズをしたシュンスケに追い立てられて、私は荷物を置いた場所へ向かった。自分で持ってきたんだけど、私の所持品にしては非常に珍しい、分厚くて重い図鑑のような本を一冊、抱えるようにして持ち出した。